午前三時のFAX、書き換えられない避難経路

──平成0x29A年07月04日 03:50

 ぴー、がが、がが。

 FAX機が紙を吐き出す音で目が覚めた。防災訓練室の簡易ベッドに横たわったまま、あたしは天井の蛍光灯を睨む。午前三時五十分。七月の夜気は湿度ごと肌に貼りついて、首筋が汗ばんでいた。

「千紘、受信完了。第402-E区画の避難経路差分、三十七件」

 左耳の奥でおばあちゃんの声がする。近親人格エージェント、村瀬トメ。享年七十九。おばあちゃんは生前、この地区の消防団で連絡係をやっていた。だからFAXの音には妙に反応が早い。

「……三十七件。訓練前に全部レビューしろって?」

「前回の震災想定訓練で未処理が二十件残って始末書だったでしょう。寝ぼけてないで起きなさい」

 はいはい。あたしは簡易ベッドから足を下ろし、スリッパを探す。足元にはVHSテープが散乱している。先週の訓練記録映像。デジタルアーカイブに移す予定だったのに、記憶補助の更新が止まっていて、どのテープがどの訓練か紐づけが全部飛んでいる。

 ラベルには手書きで「H0x29A/06/20 第三種水害想定」とか「H0x29A/06/28 帰宅困難者誘導」とか殴り書きしてある。あたしの字だ。記憶補助が正常なら、視界にテープをかざすだけで中身が浮かぶはずなのに、今は白紙のまま。

「更新申請、出してるんだけど」

「量子署名の検証キューが詰まってるって通知、昨日来てたよ。党ドクトリンの署名アルゴリズム、また鍵長の再計算やってるんだって」

 あたしはFAXの排紙トレイから感熱紙の束を取り上げた。避難経路の差分リクエスト。建物の取り壊し、新しい仮設通路、封鎖された地下道。どれも訓練シナリオに直結する。これを今朝六時の模擬訓練までに精査して、承認か非承認を判定しなければならない。

 端末を開く。生成AI校正モードが立ち上がり、差分テキストの矛盾点を赤く染めていく。「避難経路C-12、幅員2.1m→1.4mに縮小。車椅子通行基準を下回ります」——こういう機械的な指摘はありがたい。でも最終判断はあたしがやる。

「おばあちゃん、C-12ってどこだっけ。旧・第三小学校の裏?」

「……ごめんね、千紘。私の地図データも記憶補助と連動してるから、今ちょっと曖昧」

 おばあちゃんの声が珍しく頼りない。あたしはVHSの山から一本を引き抜いて、訓練室の隅に鎮座する再生デッキに突っ込んだ。ブラウン管モニターに砂嵐、それから粗い映像。去年の夏の避難誘導訓練。C-12の通路を住民役のボランティアが走っている。

 映像の端に、おばあちゃんが映っていた。

 いや、違う。おばあちゃんに似た誰か——消防団の法被を着た、あたしくらいの年齢の女性。あたしはモニターに顔を近づけた。

「……これ、おばあちゃんの若い頃?」

「さあ。覚えてない。でも法被の背中、『村瀬』って書いてあるね」

 あたしは黙って巻き戻した。テープが軋む。何度見ても、その女性はC-12の幅を体で測るように両手を広げている。車椅子が通れるか、確かめるみたいに。

 FAX機がまた鳴った。追加差分、八件。時刻は四時を回っている。

「おばあちゃん」

「なに」

「記憶補助が戻ったらさ、ちゃんと聞きたいことがある」

「改まって何よ」

「あたしがこの仕事選んだの、おばあちゃんのせいだって、ずっと言いそびれてた」

 沈黙。感熱紙がゆっくり丸まっていく音だけが訓練室に満ちた。

「……知ってるよ」と、おばあちゃんは言った。

 声が少しだけ、震えていた。

 量子署名のキューが解消される通知が、視界の隅で静かに点滅した。あたしはそれを後回しにして、VHSの中の村瀬の背中を、もう一度だけ再生した。