砂嵐と磁気カードの残高
──平成0x29A年03月16日 04:50
午前四時五十分。省電力マイクログリッドが深夜モードから早朝モードへと切り替わる。分電盤が重苦しい金属音を立て、ビニールハウス群のナトリウムランプが、心臓の鼓動のように一度だけ明滅した。
私は厚手の作業着のポケットから、使い古された「テレホンカード」を取り出す。一〇〇〇度数の磁気カードだが、残高はとうにゼロだ。それをハウス入口のスマートドアにある細いスリットに差し込む。カチリと電子音が響き、真空管時代を思わせる温かな緑色のランプが灯った。この平成エミュレート社会では、なぜか高度な生体認証よりも、この前時代のプラスチック片の方が信頼されている。
「……おはよう、ユリ」
無意識に呟いて、すぐに自分の失策に気づく。耳の奥に埋め込まれたチップからは、何の応答もない。視界の端に、無機質なシステム通知が浮かび上がっていた。
【警告:エージェント・野上結衣の人格モジュールは、法定倫理検査のアルゴリズム不一致により実行を停止しています。再認可まであと四十八時間です】
本来なら代理エージェントが割り当てられるはずだが、党ドクトリンの末端アルゴリズムがバグを起こしているのか、私の元には誰も来なかった。三年前、肺炎で逝った妻の声を模したエージェント。それがいないだけで、肺の半分が機能していないような息苦しさを覚える。だが、仕事は待ってくれない。
私は「平成レタス」の収穫状況を確認するため、プラントの制御室に入った。隅に置かれた十四インチのブラウン管テレビが、ザーザーと砂嵐を吐き出している。時折、かつてのバラエティ番組の残像らしきものが映るが、音声は聞き取れない。このテレビは、マイクログリッドの負荷状況を視覚化するためのモニターとして使われているのだ。画面が明るくなれば電力に余裕があり、暗くなれば節電が必要だという、極めてアナログな指標だ。
コンソールの前に座ると、突然、網膜に赤いウィンドウが強制介入してきた。内閣ユニット第0xBF42内閣の署名要請だ。
【案件:旧千葉エリア・農業用肥料配合比の党ドクトリン差分承認】
【残り時間:〇四分五二秒】
今、私は五分間だけの内閣総理大臣だった。かつては名誉ある仕事だったのかもしれないが、今ではただのスパムに近い。エージェントがいれば「ドクトリン適合率九八%です。承認を推奨します」とユリの声で教えてくれただろうが、今は沈黙があるだけだ。私はリクエストのコードをざっと眺める。暗号アルゴリズムはすでに半ば公然と解読されており、中身が単なる利権の調整であることは明白だった。私は「承認」のアイコンを指先で弾いた。それだけで、私の治世は終わった。
再び静寂が戻る。ブラウン管の砂嵐が少しだけ強くなった。どこかのユニットが電力を消費したらしい。私は休憩用のパイプ椅子に深く腰掛け、ポケットから別のカードを出した。それは本物のテレホンカードではなく、妻が最後に残したメモをラミネートしただけのものだ。
エージェントのユリは、私の記憶を補完し、私の好みに合わせて最適化された、都合の良い幻影だ。だが、倫理検査で停止した今、私の脳裏に蘇るのは、エージェントが学習しきれなかった「本当のユリ」の、もっと不器用で、もっと不機嫌そうな顔だった。
スマートドアの外で、自動収穫機が駆動し始める音が聞こえる。朝の光がビニール越しに白く滲み出してきた。エージェントがいない朝は、驚くほど静かで、そして驚くほど普通だった。私はただ、次のシフトが来るまで、砂嵐が映し出す実体のない光を眺めていた。妻の声が聞こえないことに、私はもう、慣れ始めていた。