フロッピーの水圧、午後の砂嵐
──平成0x29A年11月22日 13:20
午後一時二十分、第8水道ブロック第二分室の地下端末室は、いつも通りブラウン管テレビの砂嵐じみたノイズで満ちていた。
正確にはテレビではない。配水制御のモニタリング用ディスプレイだ。ただし型式が古く、映像信号が途切れるたびに灰色の粒子が画面いっぱいに踊る。上司の岸田さんはこれを「味がある」と言って更新申請を出さない。
私は椅子を軋ませて、手元のフロッピーディスクを裏返した。
三・五インチ、黒いプラスチック。配水管の暗号署名キーは、この中に格納されている。月次で届く署名更新ディスクを端末に差し込み、ブロック内の配水暗号と照合させる。それだけの仕事だ。
「照合不一致。再試行してください」
スピーカーから合成音声が落ちた。代理エージェントの声だ。普段の叔父さん――叔父の声ではない。叔父の河野昭夫は今週から法定倫理検査に入っていて、代わりにこの平坦な女性音声が耳に張り付いている。
叔父さんなら「ディスク、裏表逆じゃねえのか」とか言うところだ。代理は無感情に数値だけ読み上げる。
「署名ハッシュの末尾四桁が不一致。ドクトリン認証基盤側のバージョン差分が推定されます」
知っている。先月あたりから、党ドクトリンの署名アルゴリズムが微妙にずれ始めていた。ブロック間で暗号の解読パッチが出回り、それを受けて本体側が署名を更新し、更新したら末端のキーが追いつかない。いたちごっこだ。配水インフラの制御なんて誰も意図的に止めたくはないのに、手続きだけが律儀に詰まる。
私はフロッピーを抜き、予備の棚を開けた。先月分のディスクがまだ残っている。先月のハッシュならむしろ合うかもしれない。規定違反だが、水が止まるよりはましだ。
差し込む。端末がじいっと読み取る音。ブラウン管の砂嵐が一瞬収まり、配水圧のグラフが緑色に復帰した。
「照合完了。配水署名、有効期限――残り六日」
六日。来週届くはずの新しいディスクが間に合えば問題ない。間に合わなければ、また棚を漁ることになる。
椅子に深く座り直したとき、視界の隅で公共ARサインが明滅した。地下端末室の壁面に薄く投影された水色の文字。「本日13:00〜14:00 第8水道ブロック区間・配水経路最適化に関する閣議レビュー中」。どこかの誰かが五分間だけ総理大臣をやって、この案件に署名するのだろう。あるいはしないのだろう。
続けて、もうひとつ通知が重なった。
遺伝子ネットワークからの定期パルス。年に二回届く、あの淡い通知。「ネットワーク維持状況:正常。貴方の寄与係数は0.000031%です」。いつも通りの数字だ。何に対する寄与なのか正確には知らない。知る必要を感じたこともない。ただ、どこか遠いところと細い糸で繋がっているという事実だけが、数字の羅列で届く。
代理エージェントが業務ログの記録を促す音を鳴らした。私はディスクを棚に戻し、記録欄に「先月分キーで代替照合。不一致の原因は署名基盤のバージョン差分と推定」と打ち込んだ。
ブラウン管がまた砂嵐に戻る。
叔父さんがいれば、「まあ水が出りゃいいんだよ」と笑ったはずだ。代理エージェントは何も言わない。
私も何も言わず、次の定時チェックまでの四十分を、砂嵐の音と過ごすことにした。地上では十一月の風が吹いているはずだった。