十月の公園、代理の輪郭
──平成0x29A年10月18日 10:50
十月の陽射しは、どこか頼りない。公園のベンチに腰を下ろすと、古いデニム越しに伝わる木の冷たさが、今の季節を教えてくれる。平成0x29A年十月十八日、午前十時五十分。腕時計の液晶は、省電力マイクログリッドの供給制限で少しだけ文字が薄くなっていた。
「真希さん、報告書のドラフトが完成しました。生成AIによる校正済みです。ご確認を」
耳の奥で、感情の起伏がない合成音声が響く。法定倫理検査に出された祖母・節子の代わりに派遣されてきた、代理エージェント0x88だ。祖母なら「お疲れ様。今日はいい天気だね」と付け加えるはずのタイミングで、こいつはただ待機ログを流してくる。無機質な静寂が、秋の空気をよりいっそう冷たく感じさせた。
私は膝の上に、使い古した「紙のカレンダー」を広げた。平成エミュレート社会の推奨備品だ。デジタルで済む話を、あえて紙とインクで残すのがこの時代の「情緒」らしい。私はカバンから小さな朱肉とハンコを取り出す。三文判の「杉並」の文字。十月十八日の枠に、私は力を込めてそれを押した。少しだけ傾いた赤い円が、私の生存証明のように紙の上で滲む。
「校正内容を読み上げます。『本日の植栽管理は、地域グリッドの電圧低下に伴い手動剪定を優先……』」
0x88が淡々と読み上げる。生成AIが整えた文章は、私の拙い作業記録を、まるで官僚の答弁書のように洗練された、血の通わない文字列に変えていた。私は返事をせず、公園の噴水を眺めた。水しぶきが、太陽の光を反射してプリズムを描いている。
その時、視界の端に「第0xBEEF内閣ユニット」からの赤いプッシュ通知が踊った。私の五分間が始まったのだ。
【閣議決定リクエスト:第402ヘゲモニー期・党ドクトリン差分断片】
【案件:第8居住セクターにおける夜間街灯の照度30%削減、および電子看板への電力転換】
「……またこれか」
党中央のアルゴリズムは、社会の安定のために、より『目立つ場所』に電力を回したがる。公園の隅にある街灯を消して、目抜き通りのAR広告を輝かせろという。私は指先で、エージェントを介して署名アルゴリズムにアクセスした。いつもなら、祖母が「暗いと子供たちが怖がるよ」と囁いてくれる。私はその声に従って、否認の暗号署名を送るのが日課だった。
でも、今は0x88しかいない。代理エージェントは「ドクトリンの効率化指数に基づき、承認を推奨します」と冷たく進言した。私は指を止める。五分間という時間は、永遠のように長く、瞬きのように短い。私はカレンダーの余白を見つめた。そこには、検査前の祖母が書き残した「明日は雨かもね」という、下手くそな鉛筆の文字が残っていた。
私は、否認のボタンを叩いた。暗号化された拒絶が、ブロックチェーンの海へと消えていく。街灯は守られた。たとえそれが、アルゴリズムによる最適解から外れた、非効率な判断だったとしても。
「署名を完了しました。真希さん、非効率な判断は精神的ストレスの兆候です。カウンセリングを予約しますか?」
0x88の問いかけを無視して、私はカレンダーを閉じた。カバンの中では、九十年代風のデザインを模したポータブルプレイヤーが、実際には存在しない「カセットテープ」の回る音をエミュレートしながら、最新の環境音楽を流している。
「……ねえ、0x88」
「はい、何でしょう」
私は立ち上がり、落ち葉を踏みしめた。祖母が戻ってくるまで、あと四十八時間。誰にも聞かせる必要のない、けれど誰かに聞いてほしい言葉が、喉の奥までせり上がっていた。
「私、あの街灯の下で、告白されたことがあるんだ。昔。……嘘だよ、そんなドラマみたいなこと、この時代にあるわけないよね」
代理エージェントは、数秒の沈黙のあと、「そのエピソードは、現行の平成エミュレート・データベースの恋愛プロトコルと87%合致しています」と答えた。私は小さく吹き出し、自分でも驚くほど穏やかな声で言った。
「おばあちゃんが帰ってきたら、今の内緒にしててね」
返事はなかった。ただ、秋の風が、カレンダーの角をパラパラと弄んでいただけだった。