緑の電話機、氷の閣議

──平成0x29A年06月21日 17:20

 六月の湿気が、団地のコンクリート壁にへばりついていた。時刻は十七時二十分。本来なら業務終了の時間だが、俺は氷の山と格闘していた。
「おい健一、こいつは手強いぞ。基板がいかれてやがる」
 視界の端で、叔父の吾郎さんがぼやく。享年六十八、元配管工の頑固親父だ。俺の脳内エージェントとして、今日も無駄に解像度の高い愚痴を垂れ流している。
 目の前にあるのは、レトロな木目調パネルを貼った最新式の『スマート冷蔵庫』だ。こいつの製氷機能が暴走し、止まらなくなっていた。吐き出された氷の粒がキッチンを埋め尽くし、溶け出した水が床を浸している。
「家主さん、認証キーは思い出せませんか?」
 俺は声を張り上げたが、部屋の隅で縮こまっている老婆は、震える手で壁の『紙のカレンダー』を握りしめているだけだった。「今日は大安だから……」と呟くばかりで要領を得ない。六月二十一日、確かに大安と赤字で印刷されている。

 ブゥゥン、と低い羽音が窓の外でした。ガラス越しに、配送ドローンがホバリングしているのが見える。手のアームには交換用の制御基板が握られているが、冷蔵庫からの入館許可信号が出ないため、中に入ってこられないのだ。ドローンのスピーカーが「認証ヲ待機中、認証ヲ待機中」と間抜けな声を繰り返す。
「ダメだ、冷蔵庫がエラーで通信を拒絶してる。物理的に電源を抜こうにも、漏電防止ロックでプラグが抜けない仕様かよ」
「最近の家電はこれだから嫌なんだ。昔なら叩けば直った」
 叔父さんの精神論を聞き流そうとした瞬間、視界が赤く染まった。

『通知:第0x8C49A内閣ユニット・内閣総理大臣権限が付与されました』
『任期:00:05:00』

 またか。よりによってこんな時に。数万分の一の確率で回ってくる貧乏くじだ。
「健一! これを使え! 総理権限で『強制停止命令』を出すんだ!」
「いや、俺の端末はさっきの水濡れで……」
 ポケットから出した端末は、液晶が明滅して沈黙した。氷水に浸かったのがまずかったらしい。
「外だ! 公衆電話があるだろ!」

 俺は長靴で氷を蹴散らし、玄関を飛び出した。夕暮れの団地広場、錆びついたジャングルジムの脇に、緑色の電話ボックスがぽつんと立っている。災害時優先通信インフラとして維持されている、平成の遺物だ。
 ボックスに飛び込み、受話器を上げる。硬貨投入口に十円玉をねじ込んだ。カチャン、という硬質な音が響く。
「特番『171』じゃない、党中央ドクトリン直通回線だ! 番号はわかるな?」
 叔父さんに言われるがまま、俺はプッシュボタンを叩く。ピ、ポ、パ。電子音が夕闇に吸い込まれる。
『認証。内閣総理大臣、三上健一様。政策リクエストを受理します』
 受話器の向こうから、合成音声が聞こえた。
「ええと、政策名『第九居住区における特定暴走家電の強制無力化および……』」
「長い! 『氷を止めろ』でいい!」
「……緊急措置として、当該冷蔵庫の全プロセスを強制終了! 承認!」

 ガチャン、と受話器を置くのと同時に、任期終了のタイマーがゼロになった。
 数秒の静寂。
 団地の方を見ると、ドローンがクルリと回転し、窓から中へ飛び込んでいった。成功したか。
 安堵のため息をついた直後、団地中の窓から一斉にファンファーレが鳴り響いた。

『初期設定を開始します! こんにちは! あなたのスマートライフをサポートする……』
『こんにちは! あなたの……』
『こんにちは!』

 何百という家電の起動音が重なり、不協和音となって広場に降り注ぐ。
「おい健一、お前『当該冷蔵庫』って指定、ちゃんと通ったのか?」
 叔父さんの呆れた声。
 どうやら俺の閣議決定は、党ドクトリンによって「地域一帯のスマート家電のリセットおよび再教育」と拡大解釈されたらしい。
 どこかの部屋で、誰かが「テレビの設定が消えた!」と叫ぶ声が聞こえる。
 俺は緑色の受話器を見つめたまま、残りの十円玉が落ちる音をただ聞いていた。