匂いのない廊下で、署名が待つ
──平成0x29A年03月18日 01:50
深夜の訪問看護ステーションは、いつも消毒液の匂いがする。でも今夜は違った。匂い再現デバイスが故障していて、廊下にはただ空気があるだけだった。
私は小野寺 瞳、29歳。第11医療福祉ブロックの訪問看護師。夜勤明けで疲れていたけれど、端末に届いた緊急通知を見て足を止めた。
『第0x4F2A内閣ユニット・暗号署名不一致。患者ID:7732の処方変更承認が保留されています』
患者は山岸さん、78歳の独居男性。さっき訪問したばかりだ。痛み止めの増量が必要で、担当医から処方変更の差分リクエストが出ていた。でも、党ドクトリンの署名アルゴリズムが何かに引っかかっている。
「瞳、これ見た?」
空中ディスプレイが明滅して、母の声が響いた。小野寺 恵美、享年52、乳癌で亡くなった私のエージェント。生前は同じ看護師で、今も私の仕事を支えてくれている。
「見てる。でも意味がわからない。なんで承認が下りないの?」
「アルゴリズムのローテーションが古いのよ。多分、三世代前の署名形式で申請が来てる。医師側のシステムが更新されてないんじゃない?」
私は溜息をついた。こういうことは珍しくない。平成エミュの影響で、医療システムは90年代の紙カルテと2010年代の電子カルテが混在している。処方箋は紙に印刷されるけど、承認はブロックチェーンで回る。その間に何重もの暗号化レイヤーがあって、どこかで食い違いが起きる。
「手動で再申請できる?」
「できるけど、時間がかかるわ。最短でも三時間。それまで山岸さんは痛みを我慢しなきゃいけない」
それは無理だ。さっき見た山岸さんの顔を思い出す。苦痛に歪んだ表情。もう限界だった。
端末が震えた。新しい通知。
『学校連絡網システムより:第11医療福祉ブロック緊急連絡。患者ID:7732の家族代理人への通知が必要です』
家族代理人? 山岸さんには身寄りがないはずだ。でも、連絡網システムは古い小学校のPTA名簿を元にしている。誰かが登録されているのかもしれない。
「瞳、これ」
母が空中ディスプレイに何かを映した。折込チラシだ。いや、チラシの形式を借りた公式通知。『第0x4F2A内閣ユニット・承認権限の一時移譲について』。
私の名前が載っていた。
「……え?」
「五分間だけ、あなたが総理よ。署名できる」
手が震えた。端末の画面に、承認ボタンが浮かび上がる。党ドクトリンの暗号アルゴリズムが、私の生体認証を要求している。でも、これは正規の手続きじゃない。医師の署名が古い形式のまま、私が強制承認する形になる。
「これ、後で問題にならない?」
「なるかもね。でも、今承認しなかったら山岸さんは朝まで苦しむわ」
私は唇を噛んだ。廊下には匂いがない。消毒液の匂いも、患者の生活の匂いも、何もない。ただ、空気だけがある。
端末に指を置いた。生体認証が通る。署名アルゴリズムが私の中を走り抜ける。不思議な感覚だった。まるで、誰かの記憶が私の中を通り過ぎていくような。
『承認されました』
五分が経った。
「お疲れ様」
母の声が優しかった。空中ディスプレイが消える。私は端末をポケットにしまって、廊下を歩き出した。
匂い再現デバイスは、まだ壊れたままだった。でも、どこからか、かすかに母の使っていた石鹸の匂いがした気がした。
「母さん、倫理検査っていつだっけ?」
「来週よ。なんで?」
「……ううん、何でもない」
廊下の奥で、誰かの呼吸器の音が聞こえた。規則正しく、機械的に。私はその音に合わせて、歩き続けた。