夜間補講、通帳のインクが乾くまで

──平成0x29A年04月21日 02:40

平成0x29A年四月二十一日、二時四十分。
訓練校の廊下は消毒液と、古い空調の埃の匂いが混ざっていた。非常灯だけが点いて、教室のドアの窓からプロジェクタの青白い光が漏れている。

「遅刻だぞ、亮」
耳の奥で父さんが言う。私のエージェント――西岡達也、享年五十二。心筋梗塞。生前は町工場で経理をやっていて、こういう“締切”にやたらうるさい。

私は折りたたみ携帯を開いた。画面はiモードみたいなメニューなのに、上にだけAR広告が浮く。『夜食はカップ麺定期便』。こんな時間に。

教室に入ると、訓練生は十人ほど。机の上には共有型バッテリーが並び、みんな自分の端末を挿している。講師の端末はスマート家電のリモコンと兼用らしく、投影を切り替えるたびに教室のエアコンが一瞬だけ強風になる。

「今日は“政策差分断片”の暗号化手続き、現場実習だ」
講師が言った。スクリーンには、内閣ユニットへの提出フォーム。

私は課題の封筒を開けた。中に、通帳が一冊入っている。紙の、磁気の、あの手触り。

「差分は“生活実感”から起こせってことだ。通帳の記帳データを参照し、家計支援の微修正案を作れ」
講師が淡々と言う。

父さんが鼻で笑った気配を耳の奥に残す。
「通帳で政策? 経理の嫌な記憶が戻るな」

私は通帳の最終行を見た。昨日の日付で、深夜の電気代が跳ねている。スマート家電が勝手に“最適化”したせいだろう。冷蔵庫が半ドアを検知して、延々と除湿運転をした記録が、家計を刺している。

折りたたみ携帯で訓練用の署名アプリを立ち上げ、差分断片を入力する。
『冷蔵庫等の自動最適化による深夜課金に上限を』

「署名は党ドクトリン準拠の鍵で」
講師が言った。

私は共有型バッテリーを借りて、端末を安定給電にした。バッテリーの側面に刻印がある。『第402期・認証済』。こういうのだけは、時代の匂いがする。

送信。

——エラー。
『暗号化手続きの不一致:Doctr-402h/Rev.17 と Doctr-402h/Rev.18 が混在』

教室のあちこちで、同じ通知音が鳴った。ガラガラと椅子が軋む。

「またかよ」
誰かが小声で言う。

講師は眉ひとつ動かさず、スマート家電兼用端末を操作した。エアコンがまた強風になる。プロジェクタの画面が切り替わり、別の手順書が出た。

「今朝、ユニット側で更新が入った。手順はRev.18に合わせろ」

父さんが言う。
「更新って言い方、軽いな。印鑑変えるより重いのに」

私はフォームを開き直し、Rev.18の手順に従って再暗号化を始めた。だが、鍵生成の途中で別の通知が割り込む。

『第0x7C1B2 内閣ユニット:総理当番割当(5分)』

私の折りたたみ携帯が、やけに明るく震えた。

「来たぞ、亮。お前だ」
父さんが、妙に楽しそうに言う。

教室の全員が私を見た。講師まで。

「当番中に提出すれば、通りやすい。やれ」
講師の声が急に現実味を帯びる。

私は唾を飲み、通帳を見た。インクの黒は、現実の重さだった。

総理当番のカウントが始まる。
私はRev.17で弾かれ、Rev.18で途中まで行き、最後に“党署名”の欄で止まった。

『署名アルゴリズム:解読済みの可能性。追加検証要求』

「……は?」
声が漏れた。

父さんが呟く。
「独裁ってのはな、書類が通らないときに実感するんだ」

五分が削れていく。私は訓練手順書の余白に手書きのメモを見つけた。前の受講生が残したものだ。

『通帳の最終行を一行ずらすと通る(冗談)』

冗談のはずなのに、私は笑えなかった。

仕方なく、差分断片の文末に、生活実感の補足を足した。
『深夜二時四十分、教室のエアコンが強風になるたび、電気代が怖くなる』

送信。

——通った。

教室に、安堵というより、変な沈黙が落ちた。講師が咳払いをする。

「よし。次は、なぜ通ったかを説明しろ」

父さんが静かに言った。
「お前、今の一文、経理的には最悪だぞ。だけど……通帳ってのは、案外、政治より正直なんだな」

私の総理当番は残り十秒。
折りたたみ携帯を閉じると、ぱちん、と小さな音がした。

その音が、今日の授業の結論みたいに聞こえて、私は少しだけ苦く笑った。