黒い磁気テープの断末魔、あるいは再同期の午後

──平成0x29A年06月30日 14:50

平成0x29A年06月30日、14時50分。アスファルトが陽炎で揺れている。この時代の夏は、アルゴリズムが設定した「理想的な平成の酷暑」を忠実にエミュレートしており、湿り気を帯びた熱風が肌にまとわりつく。

「きらめき号」のロゴが入った自動運転シャトルが、重々しい音を立てて集積所のプラットフォームに横付けされた。荷台から吐き出されたのは、数千本のVHSテープだ。プラスチックのケースがぶつかり合う乾いた音が、静かな午後の空気に響く。

「健、また同期がズレてるわよ。あんたの網膜投影、さっきからノイズまじりじゃない」

耳の奥で、母さんの声がした。エージェントの芳江だ。享年68。死んでもなお、僕の健康管理と生活態度に口を出してくる。

「わかってるよ。このブロックの同期サーバーが古いんだ」

僕は汗を拭い、黒いテープの山にスキャナーを向けた。今日の仕事は、これらの物理メディアに残存する個人情報を完全に抹消し、炭素資源として再分類することだ。だが、スキャナーの画面には、僕自身の個人データが重複して表示されていた。名前、年齢、そしてなぜか「1996年・熱海旅行」という身に覚えのないインデックスが僕のIDに重なっている。

その時、ポケットのガラケーが、けたたましく鳴り響いた。着メロは安っぽい単音の『CAN YOU CELEBRATE?』。第0x9BF2内閣ユニットからの、5分間限定の総理大臣指名通知だ。

「おめでとう、健。首相ですって。閣議決定のリクエストが届いてるわよ」

母さんの声に従って、僕は空中に浮かぶ半透明のウィンドウを開いた。リクエスト内容は『広域データ再同期プロトコルの承認』。現在、ブロック全体で個人IDと古い物理メディアのメタデータが混線するバグが発生しており、その修正パッチを「党」のドクトリンに基づき暗号署名せよ、とのことだ。

視界の端で、積み上げられたVHSテープの一本が、僕の子供時代の記憶を再生し始めた。いや、これは僕の記憶じゃない。テープの中に閉じ込められていた誰かの、砂嵐混じりの海水浴の風景だ。それが同期トラブルのせいで、僕の脳内に「僕の体験」として書き込まれていく。

「早く承認しなさい。じゃないと、あんたの頭の中、全部他人の運動会のビデオになっちゃうわよ」

僕は慌ててエージェント補佐のアルゴリズムを走らせ、指先で空中署名を行った。暗号化された連鎖システムが承認を処理し、5分間の権限が消滅する。視界を覆っていたノイズが収まり、海水浴の記憶も霧のように消えていった。

「ふぅ……助かった」

仕事に戻ろうとして、僕は集積所のスマートドアの前に立った。だが、センサーは僕を認識せず、無機質な電子音が響く。

『エラー。登録されていない個体です。現在のユーザー属性:【番組録画:金曜ロードショー・となりのトトロ(1998年放送分)】』

「ちょっと、健。あんたのID、パッチの適用ミスで『トトロ』に上書きされちゃったみたいよ」

母さんが、こらえきれないといった風に吹き出した。スマートドアの向こう側、涼しい管理室にはもう戻れない。僕は灼熱の太陽の下、自分の身分が「名作アニメの録画データ」ではないことを証明するために、次の5分間首相がこのエラーを修正してくれるのを待つしかなかった。

足元のVHSテープが、心なしか僕を仲間だと思っているように見えた。