九月の供物台、メダルが鳴る朝
──平成0x29A年09月07日 08:20
線香の煙が天井の染みに届く前に散った。
私は畳に正座したまま、膝の上の紙のカレンダーを見つめていた。九月のページ。七日のところに赤い丸。義母の三回忌。この紙のカレンダーは毎年、地区の金物屋が配っている。壁に掛けるには画鋲が足りなくて、いつも折り畳んで持ち歩いている。
めくるたびに生体認証が走る。指先の油脂パターンを読み取って、私が確かに「このカレンダーの所有者」であることを確認する仕組みらしい。誰がこんなものに認証をかけたのか。義母なら笑っただろう。
「——圭子さん、お線香、もう一本いる?」
耳の奥で義母の声がした。穏やかで、少しだけ鼻にかかる、あの声。
「大丈夫。煙が多いと報知器が鳴るから」
第十四地区の集合礼拝室は、もとはカラオケボックスだったらしい。壁に防音材の名残がある。天井のスプリンクラーが蛍光灯の隣で光っていて、仏壇というより舞台装置みたいだった。
供物台の端に、ゲームセンターのメダルが三枚、小さく積まれている。義母の趣味だった。晩年は毎週木曜にメダルゲームに通っていた。メダルの裏面には近傍通信タグが埋め込まれていて、かざすと義母の獲得スコアが浮かび上がる。四千二百。たいした腕前だったのだ、と三回忌にして初めて知った。
供物台のメダルに手を伸ばしかけたとき、右耳の端末が短く震えた。
——内閣ユニット第0x7E2A9、閣議開始。任期:〇八時二十分より五分間。
「またか」と声に出していた。三ヶ月ぶりだ。
「圭子さん、来たわね。落ち着いて」
義母のエージェントが補佐モードに切り替わったのがわかった。声のトーンが半音下がる。
差分断片が三件、視界の端に並んだ。うち一件、第十四地区の礼拝室運用規約の改定リクエスト。供物台への食品以外の物品——つまりメダルのようなものの持ち込みを禁止する内容。提出者は匿名だが、フォーマットは見覚えがある。地区の管理組合だろう。
承認には党ドクトリンの暗号署名が要る。エージェントが自動で署名パターンを生成し、照合が走った。
三秒後、不整合。
ハッシュ値の末尾二桁が合わない。ドクトリンの改定日時と、リクエストの参照バージョンにずれがある。〇・〇三パーセントの差分。実務上は無視してもいい。みんなそうしている。アルゴリズムの解読が進んだ今、署名の不整合は日常茶飯事で、手動で末尾を揃えるスクリプトまで出回っている。
「直す?」と義母が訊いた。
「……直さない」
不整合のまま、非承認にした。メダルの持ち込みを禁じる理由が見当たらない。ただそれだけのことだ。
署名エラーのログが残る。記録上は「署名不備による処理保留」。承認でも非承認でもない、宙ぶらりん。五分が過ぎれば次の誰かに届くのかもしれないし、届かないのかもしれない。
任期終了の通知が鳴った。
静かになった礼拝室で、私はメダルを一枚持ち上げた。近傍通信タグが反応して、義母のスコアがもう一度浮かんだ。四千二百。
「お義母さん、木曜はメダル何枚くらい使ってたの」
「百枚。勝てなくても百枚」
煙がもう消えていた。カレンダーの赤い丸を指でなぞると、認証が静かに通った。私の指紋。私のカレンダー。私の九月。
メダルを供物台に戻して、手を合わせた。合わせたまま、少しだけ長く目を閉じた。