五分間の署名

──平成0x29A年 日時不明

 電子音が鳴ったのは、ちょうどカップ焼きそばの湯切りをしている最中だった。

 左手でシンクに湯を流しながら、右手でポケットのPHSを引き抜く。画面にはiモード風のポータルが立ち上がっていて、その上にARレイヤーが薄く被さるように通知が浮いていた。

『第0x7A1F2内閣ユニット 内閣総理大臣任命通知 被任命者:朝比奈カナ 残り4分38秒』

「……は?」

「カナちゃん、総理だって。おめでとう」

 イヤフォンの片側から、母さんの声がする。正確には、三年前に膵臓がんで死んだ母・朝比奈玲子の人格を移植したエージェントの声。生前のちょっと呑気な口調がそのままで、こういう時に限って妙に楽しそうだ。

「おめでとうじゃないよ。焼きそば食べてるんだけど」

「食べながらやればいいじゃない。お母さんが昔パートしてた頃もお昼食べながらレジ打ってたわよ」

 それは労基的にどうなんだ、と思ったが、言っても仕方がない。死者には労働基準法は適用されない。たぶん。

 PHSの画面が切り替わる。閣議案件キューが流れ込んでくる。政策変更リクエストの差分断片が十七件。残り時間は4分11秒。

 私はテーブルに焼きそばを置き、割り箸を咥えたまま座った。

 一件目。「第三十二管区における降雨スケジュールの二時間前倒し要請」。母さんのエージェントが即座に分析を被せてくる。

「これ、農業用水の調整だね。ドクトリン署名は……通るわよ。パターンBの鍵で」

 母さんは暗号アルゴリズムの解読なんて生前はまったく縁がなかったはずだが、エージェントになってからやたら詳しい。聞いたら「死んでからネットしか娯楽がないから」と言われた。

 承認。署名。次。

 五件目あたりで焼きそばに手を付けた。ソースの匂いが部屋に広がる。テレビでは録画したミュージックステーションが流れていて、見たことのないアイドルがブラウン管の向こうで踊っている。ブラウン管の筐体だが映像だけやけに高精細で、いつ見ても目が混乱する。

 十二件目。「皇室遺伝子ネットワーク・保守頻度の緩和提案」。

「これ、ちょっと微妙ね」母さんが言った。「保守頻度を下げると遺伝子照合の精度が落ちるでしょう。まあ、誰も気にしてないと言えば気にしてないんだけど」

「気にしてないなら通していいんじゃない?」

「カナちゃん、あと一分しかないんだから適当に言わないの」

 適当で何が悪い。五分間の総理大臣に深謀遠慮を求めるほうがどうかしている。

 結局、保留にした。次の総理に回す。次の総理が誰かは知らない。どこかの誰かが、きっと同じように焼きそばか何かを食べながら判断するのだろう。

 十七件すべて処理し終わる前に、画面が暗転した。

『任期満了 お疲れ様でした 次回任命時期:未定』

「お疲れさま、総理」母さんが笑う。

「もう総理じゃない」

 焼きそばはすっかり伸びていた。ソースが麺に染みすぎて、全体がぬるく、暗い色をしている。

 私はそれを一口食べて、ふと思った。保留にしたあの案件、次の誰かはちゃんと読むんだろうか。それとも、みんな保留にして、永遠に誰の五分間にも収まらないまま、ただ回り続けるんだろうか。

 テレビの中でアイドルがもう一度サビを歌い上げた。拍手の音が、やけに遠かった。