路線図の余白、忘れた署名

──平成0x29A年02月20日 18:20

俺の名前は柏木透。三十五歳。旧相模原エリアの公共交通管理センターで、バス路線の変更申請を裁く仕事をしている。

今日も午後六時を過ぎて、センターの窓口は静まり返っていた。外は薄暗い。蛍光灯の光が、机の上の電話帳を照らしている。分厚い紙の塊。五年前に復権した、アナログ手続きの象徴だ。

「透、この申請、署名が足りないぞ」

脳波UIを通じて、叔父の声が響く。柏木健太郎。享年四十八。交通事故死。元バス運転手で、俺のエージェントだ。生前は几帳面な男だった。死後も変わらない。

俺は目の前の紙束を見る。第0x1A4C7内閣ユニットからの路線変更リクエスト。手書きの申請書、添付された古い路線図、そしてカセットテープ。テープには、変更理由を吹き込んだ音声が入っているらしい。平成エミュの名残で、こういうアナログ提出が「正式」とされている。

「署名欄、三つあるけど二つしか埋まってないな」

俺は電話帳をめくる。申請元の担当者名を探すためだ。デジタルツイン化された住民台帳もあるが、アナログ手続きには「紙の電話帳での照合」が義務付けられている。誰が決めたのか知らないが、党ドクトリンの暗号署名がそう言っている。

指先でページを繰る。紙の手触り。インクの匂い。ふと、懐かしさに似た感覚が胸をよぎる。

「あった。第0x1A4C7ユニット、副担当……っと、名前が違うな」

申請書の署名欄には「田中」とあるが、電話帳には「田辺」と記されている。誤記か、それとも別人か。

「透、これ非承認でいいんじゃないか? 手続き不備だ」

叔父の声は、いつも通り実務的だ。俺もそう思う。だが、カセットテープが気になる。俺はデッキに入れて再生する。ヒスノイズの向こうから、若い女の声が流れてくる。

『第0x1A4C7内閣ユニット副担当、田辺真理子です。路線変更の理由を申し上げます。現在の経路では、デジタルツイン障害者向けの停留所が不足しており……』

声は淡々としている。だが、どこか疲れている。

俺は電話帳をもう一度確認する。田辺真理子。該当者あり。では、なぜ申請書には「田中」と書かれているのか。

「透、これ代筆じゃないか?」

叔父の指摘に、俺は気づく。署名欄の筆跡が、他の部分と微妙に違う。誰かが代わりに書いたのだろう。おそらく、田辺本人は署名できない状況にあった。

俺は脳波UIで、デジタルツイン台帳にアクセスする。田辺真理子、二十九歳。現在、法定倫理検査中のため、エージェント停止。代理エージェントも未割り当て。

つまり、彼女は今、完全に一人だ。

「透、どうする?」

叔父の声が問いかける。俺は黙って、もう一度カセットテープを巻き戻す。ヒスノイズ。女の声。淡々とした、疲れた声。

俺は申請書の非承認欄にチェックを入れようとして、手を止める。電話帳のページを見る。田辺真理子の名前。住所。電話番号。

全部、紙に印刷されている。誰かが、手作業で、この電話帳を作ったのだ。

「……承認する」

俺はそう呟いて、承認欄にチェックを入れる。党ドクトリンの暗号署名は、おそらく通らない。だが、俺はもう気にしない。

「透、それでいいのか?」

叔父の声は、驚いているようだ。俺は答えない。ただ、カセットテープを取り出して、ケースに戻す。

窓の外は、もう真っ暗だ。バスの走る音が、遠くから聞こえる。