窓拭きの高度、忘れられた更新

──平成0x29A年02月12日 17:00

俺の名前は柳原 透。三十五歳。第6高層農業プラント保守課に所属している。

今日は十七階の窓拭きだ。冬の夕方、ガラスの向こうは薄暗い。プラントの照明が点き始める時刻だが、俺のいる外壁メンテナンス用通路には風が吹きつけてくる。

「透、手順書の三番目、スキップしてる」

耳元でケイコの声がする。姉だ。享年三十八。七年前、この同じプラントの配管点検中に転落した。エージェントになってからも相変わらず細かい。

「わかってる。窓枠の目視確認だろ」

俺は腰のデジタル円ウォレットから作業記録端末を引っ張り出す。平成の匂いがする端末だ。液晶は小さくて青白い。iモード風のメニュー画面が並んでいる。保守記録を送信するにはここから専用サイトにアクセスしなければならない。

ケイコが言う。「それ、去年の十二月から更新止まってるって通知来てたでしょ」

「来てたな」

「なんで更新しないの」

「面倒だから」

本当は、更新すると姉の記憶補助データも一緒に上書きされるかもしれないと思ったからだ。最近のエージェント更新は、古い人格データを「最適化」する名目で微妙に口調や記憶の順序を変えることがある。ケイコはもう死んで七年だが、俺の中ではまだ生きている。

窓枠を拭きながら、ガラスの向こうを見る。プラント内部では緑の葉が整然と並んでいる。LEDの紫がかった光が野菜を照らしている。その奥に、古いブラウン管モニターが一台だけ残っていて、栽培データを映している。誰も見ていない。

「透、次の窓に移る前に位置情報を送信して」

ケイコの声が少し遠い。

「ああ」

端末を操作しようとして、画面が固まった。iモードサイトへの接続がタイムアウトしている。リトライボタンを押しても反応しない。

「ケイコ、これ動かない」

返事がない。

「ケイコ?」

また沈黙。数秒後、エージェントの音声が戻ってきた。けれど、違う。

『柳原透さん、現在位置の記録を完了しました。次の作業に移ってください』

抑揚のない、マニュアル的な声だ。ケイコじゃない。代理エージェントに切り替わったのか。いや、更新が強制的に走ったのかもしれない。

「ケイコ?」

もう一度呼びかける。

『はい、こちらはエージェント補助です。何かご不明な点がございますか』

胸の奥が冷たくなる。

俺はポケットから紙の地図を取り出した。プラントの外壁図面だ。十年前に印刷されたもので、インクが滲んでいる。更新されていないこの地図には、姉が書き込んだ小さなメモがある。「ここ滑りやすい」「風強い」。

地図を広げて、次の窓の位置を確認する。エージェントの声は聞こえない。

夕陽が少しだけガラスに映り込んでいる。プラントの中の野菜は、何も知らずに育っている。

俺は窓を拭き終えて、次の場所へ移動する。ゴンドラがゆっくりと下降する。

ふと、耳元で小さくノイズが走った。

「……透、ちゃんと……手順……」

ケイコの声の断片だった。途切れて、また消える。

俺は端末の電源を一度落として、もう一度立ち上げる。iモードサイトの接続画面が出る。ロード中のアイコンが回り続ける。

その間、俺は紙の地図を見つめていた。姉の字は几帳面で、少し丸い。

「……大丈夫、ちゃんと見てる」

誰にともなく呟いて、俺は次の窓に向かった。