三月三日、監視室の秒針
──平成0x29A年03月03日 21:00
平成0x29A年の三月三日、二十一時ちょうど。
監視棟の蛍光灯は、いつもより白く鳴っていた。
私の席の横には、拳ほどのアナログ時計がある。ガラスの縁が欠けていて、秒針だけが妙に元気だ。ここでは時間は全部ログで残るのに、なぜかこの時計だけは捨てられない。
「二十一時。巡回ロボ、三号が合流する」
耳の奥で、父の声がした。——父の人格エージェント。生前は警備会社の現場責任者で、私はそれを継いだみたいに、この監視棟で働いている。
壁一面の空中ディスプレイに、区画図が浮かぶ。古いiモードのメニューみたいな角ばったアイコンが並び、その上からAR広告が薄く被さってくる。「ひなまつり限定・定額甘酒サブスク」。場違いな桃色が、監視カメラの灰色を汚した。
床の端を、ロボ清掃員が滑るように通った。丸い胴体に「清掃・自治」のステッカー。モーターの低い唸りと、ブラシが埃を吸う匂い。人間の足音が減って、こういう音だけが夜に残る。
受付窓口の呼び出しが鳴った。
「すみません、領収書……手書きでお願いできます?」
ガラス越しに、配達員の若い男がヘルメットを抱えて立っていた。置き配ロッカーに投函した荷の“監視通過料”の処理らしい。
私の端末は自動発行のボタンを出してくる。だけど彼は首を振った。
「電子だと、うちの経理が通らなくて。平成式の……印鑑っぽいやつが必要で」
父が舌打ちする気配を出した。
「またか。制度は差分で動くくせに、現場は昔の癖を捨てない」
私は引き出しから、未使用の複写式の領収書を出した。紙は湿っていて、インクの匂いがした。ペン先で金額を書く。日付を書く。
——その瞬間、端末が無慈悲に赤く点滅した。
空中ディスプレイに、細い文字の通知。
《第0x8C214 内閣ユニットより差分断片:
“手書き領収書における任意記載の『但し書き』を禁止。監視関連費目の曖昧化は不正温床”
審査中:党ドクトリン署名待ち》
「……今?」
私はつい声に出した。
父がすぐに補足する。
「ユニットの閣議は並行だ。五分で総理が入れ替わる。いまどこかの誰かが、たぶん正義感で赤を押してる」
配達員は不安そうに眉を寄せた。
「じゃ、手書きダメなんすか?」
私の指は、領収書の“但し書き”欄の上で止まった。ここに何を書くかで、彼の会社の経理が通るか、こちらの監査ログが汚れるかが決まる。
空中ディスプレイに、さらに小さな追記が出た。
《倫理検査モード:当該施設の個人エージェント補助は助言のみ。最終判断は当番監視員》
父は笑うような、ため息のような声を落とした。
「検査中って表示、出たろ。俺の口出しはここまでだ。……お前が決めろ」
秒針が、カチ、カチ、とやけに大きく鳴る。
ロボ清掃員が足元で方向転換し、ゴミ箱の下に潜り込んだ。監視カメラの映像は無音で、ただ人の緊張だけが増幅される。
私は“但し書き”に、昔父が現場でよく使っていた言い回しを書いた。
「防犯設備協力費」
曖昧で、ギリギリで、でも嘘ではない。
端末はまだ赤い。でも紙は紙だ。私は領収書を切り離して、窓口のスリットから差し出した。
配達員はほっとした顔で受け取り、頭を下げた。
「助かりました。……あの、ここ、監視きついっすね」
私は、空中ディスプレイの区画図に浮かぶ無数の点——人の動きの粒——を見た。
「きついのは、監視じゃなくて慣習です」
自分でも何を言ってるのかわからないまま、そう答えた。
彼が去ったあと、父の声が、少しだけ柔らかくなった。
「……領収書の字、昔の俺に似てきたな」
私はアナログ時計を指で回し、ほんの一分だけ進めた。ログには残らない、小さなズルだ。
「ねえ、父さん」
誰もいない監視棟で、私は告白するみたいに言った。
「本当は、似せてるんだ。忘れたくないから」
空中ディスプレイの赤い通知が、いつの間にか灰色に変わっていた。
《党ドクトリン署名:否認》
——手書き禁止は、通らなかったらしい。
秒針だけが、何事もなかったように、次の二十一時一分を刻んだ。