MDは空転し、水門は黙る
──平成0x29A年07月20日 07:00
平成0x29A年七月二十日、午前七時。
耳元のイヤホンから、擦り切れた磁気テープのようなノイズ交じりの電子音が流れている。俺はポケットの中のMDプレーヤーの四角い感触を確かめながら、自動運転シャトルの窓に額を預けていた。窓の外、第6上水管理ユニットへ続く幹線道路は、またしても渋滞で死んでいた。
『蓮、再生リストがまた90年代後半のベスト盤に戻ってるわよ。少しは新しいヘゲモニー期の曲も聴いたら?』
脳内で姉さんの声が響く。俺の担当エージェントであり、四年前に過労で死んだ姉、橋本唯だ。
「いいんだよ。この回転音が落ち着くんだ」
俺は心の中で呟き、視線を下ろした。路肩ではオレンジ色のロボ清掃員が三台、互いに進路を譲り合おうとしてデッドロックに陥り、その場で小刻みに震えている。合意形成アルゴリズムの遅延。最近、この都市のあらゆる処理が重い。
シャトルが完全に停止した。「交通流最適化のため、一時待機します」というアナウンスが流れ、車内ディスプレイには荒いドット絵のiモード風待機画面が表示される。俺は舌打ちをして、手動ドアコックを引いた。職場まで走った方が早い。
湿った朝の空気が肺に張り付く。高架下の遊歩道を急ぐと、かつてのアミューズメント施設の残骸が目に入った。色褪せた「プリント倶楽部」の筐体が並んでいる。電源は生きているらしく、極彩色のライトが点滅し、誰もいない空間に向かって「イエ〜イ! 写りがイイね!」と底抜けに明るい合成音声を撒き散らしていた。カーテンの隙間から覗くブースの暗闇が、妙に生々しい。
『気味が悪いわね。古い顔認証データが残留してるのかしら』
「見るなよ。倫理検査で引っかかるぞ」
俺は視線を逸らし、管理棟へのゲートを潜った。
現場は静まり返っていた。悪い意味でだ。巨大なろ過水槽の周りで、同僚たちが腕組みをしてホログラムのコンソールを睨んでいる。
「どうしたんですか」
「おう、橋本。まただよ。バルブ9番の開栓リクエストが通らねえ」
主任が吐き捨てるように言った。水質センサーが微細な異物を検知し、安全規定に基づき自動閉鎖。そこまではいい。問題は、再開のための安全確認署名が、並列内閣のどこかでスタックしていることだ。
水位計は危険域を示している。このままでは未処理水が居住区の配管へ逆流しかねない。
『党ドクトリン第4条、公衆衛生の保持。優先度は高いはずなのに、なんで承認が降りないの?』姉さんが訝しむ。
「誰かがサボってるか、アルゴリズムがバグってるかだろ」
俺はコンソールを操作し、手動バイパスの申請を投げた。即座に「却下」の赤い文字。理由:『手続きの正当性が担保されていません』。
その時、視界の端に金色の桐紋が点滅した。
――おめでとうございます。貴殿はこれより五分間、第0xB74A内閣総理大臣です。
ランダム選出。最悪のタイミングで、最高の権限が回ってきた。
『蓮! これで強制執行できる!』
「わかってる!」
俺は意識を拡張し、仮想の閣議室へダイブする。数十万の総理大臣たちが高速で署名を交わす光の奔流。俺はその中から、自分の担当区画の水門制御権限を掴み取った。
「第6上水管理ユニット、緊急措置としてバルブ9番の強制開放を提案!」
俺の思考に合わせて、姉さんが法的根拠となる条文を瞬時に参照し、付与する。完璧なロジックだ。
だが、承認率は51%で止まった。
目の前に冷ややかな文字列が浮かぶ。『否決:経済的損失リスクが許容値を0.02%超過』。
異物混入による配管洗浄コストを嫌った「党」の自動評価プログラムが、市民の渇きよりも収支を優先したのだ。
『嘘でしょ……ただの水よ? 飲めなくなるのよ?』
姉さんの動揺がノイズとなって俺の視神経を焼く。五分間の任期が、秒刻みで減っていく。
「ふざけるな」
俺は仮想空間のウィンドウを払い退け、現実のパイプレンチを掴んだ。錆びついた手動ハンドルのロック機構を、物理的に叩き壊すために。
ガガン、と硬質な音が響く。警報が鳴り響く中、俺は全身の体重をかけてハンドルを回した。錆が悲鳴を上げ、バルブが動く。水が流れる轟音が足元から響いてきた。
総理大臣の権限終了まで、あと十秒。
俺は自分の視界に、「内閣総理大臣辞職願」とともに、破壊したロック機構の写真を添付して送信した。
水は流れ出した。主任が安堵の息を吐き、同僚たちが歓声を上げる。
だが、俺の耳元でMDの音楽がプツリと途切れた。
『……ねえ、蓮』
姉さんの声が、ひどく遠い。
『今、あなたの個体識別IDに、党中央からタグが付けられたわ。「要観察:予測不可能な物理干渉者」……これ、どういう意味?』
俺は答えず、MDプレーヤーを取り出した。ディスクは回転しているはずなのに、音が出ない。いや、違う。俺の聴覚情報の一部に、マスキングがかかっている。
帰り道、高架下のプリクラ機がまた「イエ〜イ!」と叫んだ。
無人のブースの中で、フラッシュが焚かれる。
排出されたシールがひらりと地面に落ちた。拾い上げると、そこには誰も写っていない背景の上に、真っ赤なペンで『承認待ち』とだけ書かれていた。