光磁気の深度、未承認の春

──平成0x29A年05月03日 02:20

 午前二時二十分。ラボの空調が吐き出す乾いた風の音だけが、深夜の静寂を塗りつぶしている。

 私の目の前では、三枚目の生成AI校正済みの申請書が、ホログラフィック・ディスプレイの上で虚しく明滅していた。第0x8C2内閣ユニットからの承認署名が届かない。現在の第402ヘゲモニー期において、党ドクトリンのアルゴリズムは鉄壁のはずだが、時折こうして、数十万の並行処理のどこかで「詰まり」が生じる。

「奏、そんなに根を詰めるな。どうせ向こうの総理大臣は、今頃カップラーメンでも啜ってる五分間だ」

 耳の奥で、父さんの苦笑混じりの声が響く。杉本昭雄。かつて町工場の旋盤を回していた父の、法定倫理検査をパスした健全な人格。私のエージェントだ。

「そんなわけないでしょ。署名は自動のはずよ。誰かが意図的に保留してるか、ネットワークの差分断片が渋滞してるのよ」

 私は、三Dプリントされたばかりのチタン合金製部品を手に取った。ハニカム構造をさらに複雑化した、次世代の構造部材だ。これの強度試験を開始するには、上位ユニットの閣議決定が必要になる。たった数マイクログラムの設計変更に、数万人の「五分間総理大臣」たちの合意形成が必要な世界。それが私たちの平成だ。

「五月三日か。昔なら憲法記念日だ。国中が休みだったんだぞ」

 父さんの声に促されるように、私はデスクの引き出しの奥をかき回した。指先に触れたのは、プラスチックの硬い感触。六四〇メガバイトのMOディスクだ。平成エミュレートが加速した際、データ保存の信頼性が高いとして発掘された化石のようなメディア。私はそれを古いスロットに差し込んだ。カシャ、という機械的な、それでいてどこか頼もしい音がラボに響く。

 読み込みを待つ間、ディスクの透明なプラスチックケースの隙間に、一枚の紙片が挟まっているのに気づいた。色褪せた、古い映画のチケットの半券だ。二〇一〇年代のものだろうか。そこには『さらば、愛しき……』というタイトルの一部と、座席番号が印字されていた。

「それ、母さんと行った映画だよ。よく取っておいたな、俺」

 父さんの声が少しだけ湿り気を帯びた。当時の人々は、二時間の映画を見るためにわざわざ場所を移動し、紙の券を買い、そしてその体験の残滓をこうして物理的に残していた。今の私たちは、五分間限定の権力をランダムに付与され、アルゴリズムの指示に従って暗号署名を生成し、効率化の果てに停滞しているというのに。

 ディスプレイに赤いアラートが出た。承認プロセスのタイムアウトだ。どうやら私の申請は、別の優先度の高いドクトリン――例えば「祝日における電力消費の抑制」といった、半ば忘れ去られた古いアルゴリズムに干渉されたらしい。合意形成は、再び闇の中に消えた。

「……今日はもう、諦めようかな」

 私は三Dプリント部品を机に置いた。父さんの言う通り、今日は祝日なのだ。誰も意識していない、遺伝子ネットワークの中にだけ微かに流れる「静養」の指令が、どこかの内閣ユニットの判断を鈍らせているのかもしれない。

 MOディスクのシーク音が止まり、父さんの古い設計図のリストが並んだ。そこには効率とは無縁の、泥臭い工夫の跡が並んでいた。私はチケットの半券を、指先でそっとなぞる。承認されないこの時間は、かつての日本人が「休日」と呼んだ、空白の贅沢に似ているのではないか。そんな考えがふと頭をよぎった。

「そうだな、奏。寝ちまえよ。明日の五分間には、また別の誰かが署名してくれるさ」

 父さんの穏やかな声を聞きながら、私はディスプレイの電源を落とした。暗くなった窓に、平成0x29A年の、深く静かな夜が映っていた。