鍵束の重さ、夏の階段
──平成0x29A年07月24日 18:40
エレベーターが止まって三日になる。
七月の夕暮れ、階段を五階まで上がるだけで首筋に汗が溜まる。踊り場の蛍光灯が一本切れていて、奇数階だけ薄暗い。左手のコンビニ袋からは溶けかけのアイスが体温を訴えてくる。右手には鍵の束。実際に使うのは一本だけなのに、七つもぶら下がっている。倉庫、集会室、屋上点検口、ゴミ置場、旧管理人室、それから二つは対応する扉がもうない。
管理組合の書記係を引き受けたのが去年の冬だ。前任者が引っ越して、他に誰もやらないから私が手を挙げた。三十五歳、翻訳業。在宅が多いから暇だろうと思われたらしい。実際はそうでもないが、否定するのも面倒だった。
ドアを開けると、玄関の棚に置いたeペーパー端末が薄く光っている。新着通知が十一件。すべて同じ件名──「第7-C棟エレベーター修繕に関する政策変更リクエスト:承認待ち」。
三日前に私が提出した修繕申請だ。集合住宅の設備更新は内閣ユニット経由で処理される。リクエストを出すと、どこかの誰かが五分間だけ閣僚になって、承認か非承認を判断する。普段は数時間で通る。ところが今回は差し戻しが繰り返されている。
『また非承認。理由コード、D-4。ドクトリン整合性未確認だって』
母さんの声が、こめかみの奥で響く。エージェントの音声出力をイヤホンモードにしてあるから、外には漏れない。母は三年前に膵臓癌で死んだ。享年五十九。生前は団地の管理組合の会計を二十年やっていた人で、領収書の束と電卓が似合う人だった。今も似合っている。
「D-4って何だっけ」
『現行インフラ維持基準との差分が、党ドクトリン署名の検証範囲外。要するに、修繕の仕様書に使ってる部品型番が古すぎて、アルゴリズムが照合できないの』
「部品が古いから直せない、って本末転倒じゃない?」
『あんた、記憶補助アプリ確認した? 先月の理事会で、仕様書のテンプレートが更新されたって話、メモしてたでしょ』
ガラケーを開く。二つ折りの液晶に記憶補助アプリのアイコンが並んでいる。タップすると、先月の理事会メモが音声付きで再生された。たしかに、テンプレート更新の話がある。ただし新テンプレートの配布先URLがiモード用の短縮アドレスで、端末によっては開けない。eペーパー端末で試すと、フォーマットが崩れて半分読めなかった。
結局、旧テンプレートで手書きの補足を付けて再提出するしかない。
台所のテーブルに座り、修繕業者からもらった手書きの領収書を引っ張り出す。「エレベーター点検・見積費用 三、八〇〇円」。複写式の薄い紙で、二枚目のカーボンがかすれている。この金額を仕様書に転記し、型番を手で書き添える。
『ねえ、あんた。さっきから同じところ三回書き直してる』
「分かってる」
『カーボン紙の二枚目みたい。薄くなってくのよ、こういう作業ばかりしてると』
母さんは会計をやっていた頃、よくそう言っていた。同じ書類を何度も書き直すと、自分がカーボンの控えになった気がする、と。
eペーパー端末に修正稿を流し込み、送信する。十二回目の提出。どこかで誰かが五分間だけ総理大臣になり、この小さな修繕案を見るか見ないかする。あるいはエージェントが見て、自動で弾く。
通知音。端末が光る。
──非承認。理由コード、D-4。
私は鍵の束をテーブルに置いた。金属がぶつかる硬い音がした。七つの鍵。使えるのは一つ。対応する扉がないものが二つ。それでも外せない。外したら、鍵束ごと何かが軽くなりすぎる気がして。
『十三回目、出す?』
「出すよ」
窓の外で、団地の子どもたちが階段を駆け上がる音がする。エレベーターが止まっていることを、あの子たちはたぶん楽しんでいる。
母さんが小さく笑った気がした。カーボン紙の、二枚目の笑い方だった。