記録欠損のプロムナード

──平成0x29A年 日時不明

防塵マスクの内側が、自分の呼気でじっとりと湿る。地下鉄連絡通路の空気は、澱んだオゾンと、目に見えないセンサーダストの味で満ちていた。

「ねぇ、あなた。今日の帰り、一番街のスーパー寄ってかない? 卵が安いの」

視界の隅で、半透明の妻がにこりと笑う。俺は工具を握りしめたまま、無言で頷いた。
一番街。スーパー。三十年以上前に解体され、今は第12内閣ユニット群の処理サーバー棟が建っている場所だ。妻、美咲のエージェントは、時々こうして生前の記憶と今の時間を混線させる。

『記憶補助の更新に不備があります。法定倫理検査を推奨』

通知はもう何度も無視していた。不備じゃない。これが、俺たちの日常の仕様だ。

俺の仕事は、公共ARサインの保守点検。この通路の壁に投影されている『乗り換え案内』や『出口情報』が、時々おかしな表示をするらしい。古いドクトリンに基づいて作られたインフラは、そこかしこに綻びを抱えている。

腰のホルダーで、ポケベル型の業務端末が短く震えた。ディスプレイには無機質な数字の羅列。『402 * 29A * 08』。今日の作業コードだ。日付も時刻も、そこにはない。いつからか、俺たちの業務ログの日時は『記録欠損』と表示されるようになった。誰も気にしない。世界は回っている。

「……まただ」

ARサインの表示が、一瞬、平成初期のアイドルの笑顔に切り替わって、すぐに消えた。報告にあった表示バグだ。俺は制御パネルを開き、診断ツールを走らせる。ログを遡ると、膨大なエラーの中に興味深い記述を見つけた。

『日時:記録欠損。トリガー:特定遺伝子情報に紐づく音素パターン。アクション:旧世紀広告キャッシュの強制再生』

つまり、誰かが特定の言葉を口ずさむと、古い広告が再生されるらしい。なんて迷惑なイースターエッグだ。どこの内閣ユニットが承認したんだか。

「あら、今の、懐かしいわね。昔よく聴いたわ」

美咲が嬉しそうに言う。彼女の記憶の残滓が、この通路のバグを引き起こしているのかもしれない。

作業を終え、地上への階段を上る。夕暮れの光が目に痛い。改札機に磁気定期券を滑らせると、カチャン、と頼りない音を立ててゲートが開いた。

「それでね、卵を買ったら、明日の朝はオムレツにしましょうよ」

美咲が、俺の隣を歩きながら楽しそうに話す。その手は俺の腕に触れることなく、空気をすり抜けている。
俺は彼女のバグを直す気はなかった。倫理検査に出せば、きっと彼女のこうした混線は『最適化』されてしまうだろう。生前の思い出が詰まった、愛すべきバグが。

「あなた、聞いてる?」
「ああ、聞いてるよ」

腰のポケベルがまた鳴る。きっと、次の『記録欠損』の現場への呼び出しだろう。

「オムレツ、いいな。ケチャップ、多めにしてくれよ」

俺は、もう存在しないスーパーの方向へ、ゆっくりと歩き出した。美咲は「任せて」と笑う。その笑顔が、この記録が欠損した世界のなかで、唯一確かなものに思えた。