VHSの棚と空中の誤字
──平成0x29A年 日時不明
レンタルビデオ店の奥の倉庫で、僕は段ボール箱を積み直していた。
「もっと丁寧に。磁気フィールド対策は大事だぞ」
イヤホンから聞こえるのは、父・田中博の声だ。
父は三年前に亡くなった。元々は映像ライブラリ管理の仕事をしていた人間だ。今は僕の脳波インターフェースに乗り込んだ人格エージェントとして、毎日指図を出している。
ただし、今日は「代理エージェント」運用中だ。
父の倫理検査がこの月曜に控えているため、システムはまだ代替のAIエージェントを割り当てている。本物の父と違い、代理版は時々ちぐはぐなことを言う。
「磁気フィールド」。確かに、昨日の指示は「静電気対策」だった。
店長の秋田が空中ディスプレイを操作しながら近づいてきた。
「田中、iモード経由で新しい棚卸通知が来た。見とくか」
スマートフォンではなく、折りたたみ携帯のiモード画面。平成エミュレーションの一部だ。秋田は古い端末を愛用していた。
「了解です」
僕がスマートウォッチを振ると、空中に虹色の通知が浮かぶ。「在庫調整リクエスト:VHSテープセクション、デジタルツイン版アップロード必須」。
デジタルツイン。つまり、実物のVHSテープを、デジタル化された仮想空間にも登録する手続きだ。古いメディアを新しいシステムで管理するハイブリッド運用。この店は、まだ借り手がいるVHSを手放さない主義だった。
「父さん、VHSのデジタルツイン、どこから始めたらいい?」
イヤホンの代理エージェントが答える。
「リール側から。逆回転で磁化を消去してから」
違う。それは破壊指示だ。父が生きていたら、絶対に言わない。VHSを保存するなら、むしろ暗くて冷たい環境を保つべきだ。
「ちょっと待ってください」
僕は秋田に言った。
「このVHSたち、実は倫理検査のせいで、正しい指示をもらえてないんです。代理版が入ってるから」
秋田は苦笑いした。
「あるあるだな。うちの元店長もそれで損したよ。代理が『廃棄推奨』って言い張ってさ、実は再販価値があった商品を」
僕たちは黙って、VHSの箱を眺めた。
プラスチックケースの表面には、20年前の映画タイトルが印字されていた。『ラストサムライ』『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』。
「月曜日に、父の倫理検査が終わったら、もう一度やり直そう」
秋田が頷いた。
「そうだな。本物の親父さんの指示を待つ。その方が、こいつらのためだ」
イヤホンの代理エージェントが再び声を発した。
「リール側から逆回転で——」
僕は片耳だけ外した。
もう一方の耳には、倉庫の空調音が流れ込んできた。VHSテープが並ぶ棚から、薄いプラスチックの匂いがした。それは、保存されたものが、ただ待っているだけの匂いだった。父が月曜に戻ってくるまで。
秋田が、空中ディスプレイで通知を「保留」に変更した。
「予定変更。この箱は、とりあえず奥に」
僕たちは、VHSを運ぶ。その手の感覚が、なぜか温かかった。