裏サイトの総理大臣
──平成0x29A年02月08日 21:50
平成〇x29A年二月八日、二一時五〇分。
第十二治安ブロック、地域安全センターの監視モニターが、警告色である毒々しい赤に染まった。
「あら、またここ? ここの交差点、呪われてるんじゃない?」
脳内で妻の里美が呆れたように呟く。彼女が癌で逝ってから三年、俺の視覚野には常に彼女のパラメーターが表示されている。お節介で、少しだけ口の悪いエージェントだ。
モニターには、夜の街路で立ち往生する『自動運転シャトル』が映し出されていた。ヘッドライトが不安げに点滅し、路肩の『町内会掲示板』を照らしている。デジタルペーパー貼りの掲示板には「火の用心」の文字と、来週の餅つき大会のお知らせ。一見なんの変哲もないが、俺のAR視界では、その掲示板からどす黒いエラーノイズが噴き出しているのが見えた。
「党ドクトリン署名の不整合ね」里美が即座に診断を下す。「掲示板の更新データに含まれる『餅』の定義ファイルが、現行の内閣アルゴリズムと衝突してる。シャトルのAIがそれを『通過不能な高密度障壁』だと誤認したのよ」
くだらないバグだ。だが、シャトルの車内カメラには、胸を押さえる老婆が映っている。手には『リモート診療端末』が握りしめられ、画面の向こうの医師が何やら叫んでいるのが見えた。緊急搬送中か。
「正規の署名リクエストを投げたら、承認まで三時間はかかるぞ」
俺はキーボードを叩き、強制排除コードを探る。だが、中央の認証サーバーは「ドクトリン違反」として俺の操作を弾き返した。現場の治安監視員の権限では、餅つき大会の告知ひとつ消せない。
「ケンちゃん、あれ使って。右下のリンク」
里美が視界の隅にウィンドウをポップアップさせた。現れたのは、蛍光ピンクと黒の背景色が目に痛い、やたらと解像度の低いテキストサイトだった。
『★☆裏技・攻略の館☆★ キリ番踏んだらカキコよろしく~』
三〇〇年前の通信規格、iモードサイトの残骸か?
「その『ドクトリン回避パッチ・改』ってやつ。早く」
半信半疑で視線を合わせる。記述されたコードは、公然の秘密として流通している署名偽装スクリプトだった。実行キーを押す。警告音が鳴り響く。
『要・内閣承認』
ダメか、と舌打ちした瞬間、視界が黄金色に輝いた。
『おめでとうございます! あなたは現在、第4928並列内閣の内閣総理大臣に選出されました。任期は残り四分五十九秒です』
ランダム抽選の当たりくじだ。俺は迷わず、目の前のチープなiモードサイトからコピーしたコードに対し、厳格な閣議決定を行った。全会一致。承認。
モニターの中で、町内会掲示板のノイズが消滅する。自動運転シャトルは「障壁消失」を確認し、滑らかに発進した。老婆が安堵の息を吐き、診療端末の医師に頷くのが見える。
二一時五五分。総理大臣の任期終了と同時に、俺はただの監視員に戻った。
「ふう。なんとかなったな」
椅子に深くもたれかかると、脳内の里美がくすりと笑った。
「ねえ、ケンちゃん」
「ん?」
「あのサイトの管理人、HNが『サトミン』だったでしょ」
俺は視界の履歴を巻き戻す。確かに、フッターにそう書いてある。
「あれ、私が学生時代に作った黒歴史サイトなの。恥ずかしいから黙ってたけど……役に立ってよかったわ」
俺は思わず吹き出した。世界を救ったのは、亡き妻の若気の至りだったというわけだ。
「ああ、最高の遺産だよ」
俺は誰もいない監視室で、虚空に向かって小さく手を振った。