演算の裏窓、景品の微光

──平成0x29A年01月24日 15:20

僕のデスクは、平成0x29A年の研究室には似つかわしくない、ガラクタで溢れている。
透明なカップ麺の容器に入った文房具、インクが掠れた手書きのメモ、そして古びたMDプレーヤー。
MDプレーヤーの充電池ケースを開けると、くたびれたニッケル水素(NiMH)電池が二本、静かに収まっている。隣には予備の新品が二本。
あの「MDウォークマン」という表記がまだ残っているのが、またいい味を出している。

「隼人、今日もまたそんなものをいじくっているのか」
祖父、剛のエージェントが、隣の浮遊ディスプレイに半透明で現れた。
享年七十五、元電気技師。いつも僕の作業を覗き込んでは、何かと口を出す。
「これはただの気晴らしだよ、じいちゃん。メインはこっち」
僕はディスプレイのもう一つの窓を指差す。そこには、第402ヘゲモニー期における「党ドクトリン」の複雑怪奇なアルゴリズムが、幾重にも絡み合ったグラフで表示されていた。

「このデータフロー、本当に効率を追求してるのかねぇ。まるで、わざと複雑にしてるみたいだ」
剛エージェントが首を傾げる。僕も同感だ。このアルゴリズムは、数十万の内閣ユニットが並行処理で統治を回すための根幹にあるが、その構造は非効率そのもの。
しかし、約300年前に自然発生的に収斂し、誰もその実体を知らない「党」が定めたドクトリンは、公式には変更不能だ。末期で半ば公然と解読されていようが、その建前は揺るがない。

僕の仕事は、このドクトリンに基づく政策変更リクエスト処理の「最適化」研究。だが実際には、非効率なドクトリンを迂回する「シャドウ・ドクトリン」を開発している。
誰もが知っている、しかし誰もが口にしない非公式なルール。それが、今や社会を動かす実態だ。

「この週末、時間貸しCPUを借り切って、シャドウ・ドクトリンのシミュレーションを回すんだ」
僕は呟いた。生成AI校正が自動で仕上げてくれた報告書を送信トレイに入れ、シャドウ・ドクトリンのコードへと意識を集中する。
「その『シャドウ』とやらが、いつか本体を食っちまうかもしれんぞ」
剛エージェントがニヤリと笑う。彼の言うことは、まさに現実になりつつあった。

デスクの隅には、昔インスタントラーメンの景品で手に入れた、へんてこなマスコットが座っている。黄色い体に水色の帽子をかぶった宇宙飛行士のキャラクターだ。これも平成エミュの遺物。誰もが懐かしがるが、誰もその出所を正確には知らない。

ちょうどその時、MDプレーヤーのバッテリー残量を示すランプが点滅し始めた。
「あー、またか」
僕はNiMH電池を取り出し、充電器にセットする。古いMDプレーヤーが、新しい電池を要求している。

「現行制度との差分断片、か。ま、電池の交換と一緒だな。古い方が持たなくなったら、新しいのを差し込む。それだけだ」
剛エージェントが言う。彼の言葉は、ドクトリンの非効率性と、僕が開発しているシャドウ・ドクトリンの関係を、驚くほど的確に言い表していた。

政策変更リクエスト。それは現行制度との差分断片。その断片が、ドクトリンという名の古びたバッテリーで動かないなら、裏で新しいバッテリーを差し込むしかない。
党ドクトリンは、もうとっくに形骸化したルールに過ぎない。社会を動かしているのは、僕のような名もなき研究者たちが、手作業と工夫で繋ぎ合わせている非公式な演算の連鎖だ。

窓の外を見上げると、高層ビルの間にわずかに青空が見えた。今日の空は、何層にもシステムが重なった世界のどこかに、確かに存在する「裏窓」のようだった。
僕が入れ替えたNiMH電池のように、古いものが持たなくなったら、新しいものがひっそりと社会を動かす。それはもう、公式な発表も、承認も必要ない。ただ、動けばいい。
デスクに戻り、僕はシャドウ・ドクトリンのコードに、新しい演算モジュールをそっと組み込んだ。
指先に残る、NiMH電池のざらりとした感触が、この世界の曖昧な現実を教えているようだった。