エコーMAX、午後七時二十分の総理大臣

──平成0x29A年01月04日 19:20

 視界の隅に固定されたAR時計が「平成0x29A年01月04日 19:20」を告げたとき、俺はカラオケ店「スーパー・エコー館」の302号室で、こびりついたフライドポテトの匂いと格闘していた。

「まったく、正月早々どんだけ騒げば気が済むんだよ」

 独り言をこぼしながら、清掃用のセンサーダストを空中に散布する。微細な粒子がアルコールの飛沫や呼気の残留物に反応し、薄暗い部屋の中でチカチカと緑色に光って落ちていく。それを業務用のモップで乱暴に拭き取っていると、腰のベルトに装着した支給品のポケベルが「ブルルッ」と下品な振動を起こした。

 液晶画面を覗き込むと、「0906(遅れる)」でも「4949(至急)」でもなく、意味不明な英数字の羅列がスクロールしている。ハッシュ値だ。

 次の瞬間、脳内の聴覚野に直接、16和音のチープな着メロが鳴り響いた。曲目は『天国と地獄』。嫌な予感がした。

『第0x3B8F内閣ユニットからのお知らせです。ただいまより5分間、あなたは内閣総理大臣に任命されました。党ドクトリンに基づく閣議決定をお願いします』

 合成音声のアナウンスが流れると同時に、網膜ディスプレイに仰々しい菊の紋章と、承認待ちの政策変更リクエストがポップアップした。何十万と並行稼働する内閣ユニットの、ただのハズレくじだ。俺はモップを壁に立てかけた。

「おっ、陸! お前、総理大臣になったのか! 出世したなぁ」

 耳の奥で、呑気な声が響く。二年前に心筋梗塞で死んだ祖父の源三だ。今は俺の近親人格エージェントとして、こうして脳内で暇を持て余している。

「たった5分のバイト以下の仕事だよ。ええと、今回のリクエストは……『娯楽ブロックにおける標準音響プロトコルの改正』? なんだこれ」

 送られてきた差分断片を流し読みする。どうやら、客が分散SNSの各ノードに歌唱動画をアップロードする際、音声データの圧縮形式とエフェクトの基準を変更する法案らしい。最近の分散SNSは「#カラオケなう」のタグで溢れかえっていて、サーバー負荷を下げるために音質を均一化したいという、どこかのシステム屋の要望だろう。

「じいちゃん、これどう思う? 承認していいかな」
「音響だぁ? そんなもん決まっとる。カラオケはエコーだ! エコーを最大にしろ! 演歌は風呂場で歌うくらい響かせねえと、心が震えんのよ!」

 祖父が熱弁を振るう。党ドクトリンのアルゴリズムは末期状態で、俺の生体認証さえあれば、こんなくだらない法案でも通ってしまう。

「はいはい、エコー係数最大化ね」

 早く清掃を終わらせたかった俺は、祖父の言う通りにエフェクトの設定値を適当にMAXへ書き換え、暗号署名を走らせて「承認」ボタンを叩いた。システムが滞りなく処理を完了し、5分の任期が終了したことを告げる和音の着メロが再び鳴った。

 よし、清掃完了だ。モップを持って廊下に出た瞬間――俺は耳を塞いだ。

『ウォォオオォオオォオオォォ……!!』
『アイシテルゥゥウウゥウウゥゥ……!!』

 全室から、お経の合唱か洞窟の奥底のような、異常な残響音(ディレイ)がかかった歌声が爆音で響き渡っていた。俺が承認した法案は、動画データだけでなく、リアルタイムの店舗マイク出力プロトコルにも紐づいていたらしい。

 慌てて分散SNSのタイムラインを開くと、「エコーやばすぎ草」「店員何してんの」「耳壊れる」というクレームの投稿が滝のように流れていた。

 そして俺の腰では、今度こそ店長からの「4949(至急)」を知らせるポケベルが、狂ったように震え続けていた。