同期ズレの朝、祖父の歪み
──平成0x29A年05月31日 08:40
平成0x29A年05月31日、08:40。
第9治安ブロック・個人情報同期管理課、通称「シンクロ課」の早朝はいつも薄暗い。窓のない執務室に並ぶのは、古めかしいCRTモニターと、その上を流れる色鮮やかな空中ディスプレイの通知群だ。俺、藤井啓介は、一番奥の席でCRTモニターのグリーンに顔を埋めていた。
「また同期エラーか、啓介」
俺の脳裏に、祖父・誠一郎の声が響く。享年72、元公安のベテランだった祖父は、生前と変わらず冷静で皮肉屋だ。俺の近親人格エージェントとして、日々俺の仕事の補佐をしてくれる。モニターの隅には、彼の顔が淡い光の粒で浮かんでいた。
「ええ、誠一郎さん。今日の案件はタチが悪い。生体認証システムに登録されている市民の虹彩データが、過去3ヶ月分、全て『同期不能』と弾かれてます」
俺はキーボードを叩きながら説明する。物理的な鍵がぶら下がった俺の腰のキーホルダーが、ガチャリと鳴った。どうせ使う機会もない、単なる気休めの物理キーだ。このデジタルな時代に、なぜか家のドアには普通の鍵が掛かっている。平成エミュレーションの一環らしいが、全く意味が分からない。
「同期不能、か。データが破損しているわけではないんだろう?」
「はい。整合性チェックを通さないだけで、データ自体は問題ないように見えます。ただ、システムが頑なにロックを解除しない」
誠一郎は空中ディスプレイに表示されたエラーログを眺めるように目を細めた(実際には彼の脳内プロセッサが分析しているだけだが)。
「党ドクトリンの署名が乱れているな」
彼の声が、いつになく重い。党ドクトリン。約300年前から社会を統治する、実体のない「党」の暗号アルゴリズム。末期症状を呈しているとは聞いていたが、こんなデータエラーの根底にまで影響するとは。
「乱れ、ですか。まさか、誰かが意図的に?」
「さあな。あるいは、システム自体が疲弊しているだけかもしれん。しかし、この『乱れ』はどこかで見たことがある。特定のパターンの承認が、なぜか過剰に抑制されているな」
誠一郎は、俺にしか見えないエラーコードの集合を指し示した。そのパターンは、過去の閣議決定の差分断片に含まれる、特定のセキュリティプロトコルを強化する決定のものと酷似していた。誰かがランダムで5分だけ務めた内閣総理大臣が、あの時承認した差分が、今になってこんな形で現れるとは。
俺は、誠一郎のヒントを元に、党ドクトリンのアルゴリズムの綻び、いわば「穴」を探し始めた。半ば公然と解読されているというアルゴリズムの情報を漁り、特定のチェックサムを一時的にバイパスするパッチを見つけ出す。もちろん、正式な手続きではない。
「これなら……いけます」
俺は慎重にパッチを適用し、再度同期処理を走らせた。CRTモニターの画面が数秒固まり、やがて「同期完了」の文字が緑色で表示された。空中ディスプレイには、市民の生体認証データが正常に更新されたことを示す通知が流れる。
「よし」
小さくガッツポーズをする俺に、誠一郎はふっと笑った。
「これでよし。だが啓介、お前が今適用した『パッチ』もまた、数ヶ月後には別の誰かの同期エラーの種になるだろうな。結局、我々は穴を塞いでいるようで、ただ別の穴を開けているに過ぎん」
彼の言葉は、まるで自分の人生を諦観しているかのような響きがあった。俺はまた、誰かの5分間総理の権限を迂回したのかもしれない。そしてその「パッチ」もまた、やがて来る別の誰かの問題を先送りしただけだ。この終わりなき穴埋め作業が、俺たちの「平成」なのだろう。苦いインスタントコーヒーを一口飲む。飲み終えたカップは、リサイクルではなく、データ破棄シュートに吸い込まれていった。
また明日も、きっとどこかの穴を塞ぐことになる。
それもまた、一つの仕事だ。