演習場のずれた香り

──平成0x29A年 日時不明

朝の放送がまだ平成っぽいメロディを引きずっている屋外演習場で、私は磁気定期券を手のひらでこすりながら改札代わりのパネルに滑らせた。カードの端に染みた汗と、古いコートの匂いが混ざる。隣の訓練用建屋には匂い再現デバイスが三台、マネキンの胸元に巻かれている。NiMHと書かれた単三電池パックが机の上で充電ランプをチカチカさせている音を、私はいつもより大きく感じた。代理アナウンスは公共ARサインに張られたiモード風のポップアップで、避難経路を矢印で示すと同時に90年代の広告が半透明で重なっていた。人々はそれを見て笑う。平成エミュの混線だ。

「香りが違うよ」助手の子がマネキンの近くで顔をしかめる。イヤホン越しに、私の横で亡き姉・美和のエージェントが静かに言った。「祖父の線香、混じってるね」その声は慣れた口調で、訓練マニュアルの読み上げの合間に昔話をねじ込んでくる。

機器は訓練用に遺伝子ネットワークの公開タグを模したプロファイルを参照していた。表示に小さく「皇統マーカー同期: 正常範囲外」と出る。私は手元の端末でログを引く。内閣ユニットからの演習許可証は出ているが、党ドクトリン署名の検証が遅いらしい——ランダム並列処理のどれかが渋滞している。

原因は謎の微細異常だった。遺伝子ネットワークのフラグメントが微妙にずれて、香りタグと匂い再現デバイスのマッピングが一行ずれてしまったらしい。つまり、焼き焦げの臭いを出すはずが、古い仏間の線香のプロファイルが混ざった。訓練は現実味を帯びるが、受講者の息が詰まる。

代替案は即席の電源交換だった。NiMHの予備パックを素早く外し、台車に積まれていた充電式NiMHを二つ並べてデバイスに差し込む。磁気定期券を近づけると、パネルが小さく反応してセーフモードに入る。公共ARサインがちらつき、iモード風のウィンドウが消える。美和が「よくやった」と短く囁く。彼女の声に背中を押されると、不思議と手が冷静に動いた。

匂いはゆっくり、元の訓練用スモークに戻る。子供の一人が笑った。失くしたはずの定期券も、鞄の底で温かく光っているのを私は見つけた。小さな救いだ。

ログにはまだ微小な赤丸が残る。遺伝子ネットワークのズレは消えていないかもしれない。だが、今は訓練が続けられる。私は匂い再現デバイスの側で磁気定期券を握りしめ、姉のエージェントが古い歌の一節をぽつりと歌うのを聞いた。空気は線香の余韻をほんの少しだけ運んで、日常と別の時間を繋いでいるように感じられた。