錆びたポストと、五分間の組閣
──平成0x29A年06月09日 23:50
深夜の集合住宅は、コンクリートが昼間の熱を吐き出し、湿った風が廊下を撫でていく。アルミ製の郵便ポストが並ぶエントランスで、私はカバンから古い二つ折り式の端末を取り出した。
「お兄ちゃん、お疲れ様。デジタル円ウォレット、残り三二〇円だよ。明日の朝食、コンビニのパンでいい?」
耳元で、妹の結衣の声がした。七年前に心不全で逝った彼女の人格エージェントは、私の生活の細部にまで入り込んでいる。私は「ああ」と短く答え、財布から「トモダ薬局」の紙のポイントカードを取り出した。十個貯まれば洗剤がもらえる、平成初期を模した古めかしい仕組みだ。今日はスタンプが押されなかった。店員が「システムの同期ミスです」と申し訳なさそうに言っていたのを思い出す。
時刻は二十三時五十分。その瞬間、視界の右隅に赤いアイコンが点滅した。
『通知:第0x8A4F内閣ユニット、内閣総理大臣に任命されました。任期は五分間です』
「またかよ」
私は吐き捨て、集合住宅の集合ポストを開けた。中には数枚のチラシと、なぜか黄色い紙の現像袋が入っていた。表面には「フジカラー」のロゴ。中身を覗くと、現像された写真ではなく、ノイズの走った磁気テープの断片のようなものが入っている。これも「平成エミュレート」の一環だろうが、何の意味があるのかは誰も知らない。
「お兄ちゃん、閣議リクエストが来てるよ。第十五居住ブロックの、共用廊下のセンサーライト感度調整だって。党ドクトリンとの差分は、マイナス〇・〇二パーセント」
結衣がテキパキとリクエストを処理していく。私の視界には、複雑なアルゴリズムの連鎖が幾何学模様となって浮かび上がる。私はそれをただ眺める。判断など必要ない。党のドクトリンが、すでに最適解を算出しているからだ。私はただ、その決定に「人格」という名のハンコを押すだけの存在にすぎない。
「承認。量子署名を生成して」
私が呟くと、網膜をスキャンする青い光が走り、暗号化された連鎖システムに私のユニークキーが刻まれた。これによって、このブロックのライトは明日からコンマ数秒、点灯が遅くなる。社会の安定に寄与したという実感はない。
「署名完了。おめでとう、お兄ちゃん。今のでウォレットに五円入ったよ」
二十三時五十五分。赤いアイコンが消え、私はただの設備点検員に戻った。五分間の統治権。誰が何を決め、この国がどこへ向かっているのか。アルゴリズムが解読され、党の正体が空洞だと知れ渡っても、私たちはこうして平成風の不便さをエミュレートしながら、並行処理される内閣の一員を演じ続けている。
現像袋をカバンにしまい、私は錆びかけたエレベーターのボタンを押した。ガタガタと音を立てて降りてくる箱の中で、結衣が「明日は雨だって。折りたたみ傘、忘れないでね」と囁いた。
開いた扉の奥には、変わらない薄暗い日常が待っていた。私はただ頷き、自分の部屋へと続く、少しだけ感度の鈍くなった廊下を歩き出した。