カウンターの下のランプ
──平成0x29A年 日時不明
俺がこの喫茶店で働き始めて、もう七年になる。
午後三時過ぎ、客足が途切れた頃、俺はカウンター下の小さな緑色のランプを確認する。一九九〇年代のルーター、みたいな形をしたそれは、政策署名の受信状態を示している。今日も点滅は規則正しい。
「和也、今日のモーニングセット、パンの焼き加減が良かったわね」
イヤホンから姉の声が聞こえる。亡くなって三年。生前は隣町のカフェでパティシエをやっていた。俺の人格エージェントは姉・川辺明美だ。
「ありがとう。でも昼過ぎのお客さん、バタートースト残してたぞ」
「あら、それは残念」
カウンター奥のブラウン管テレビでは、昼ドラの再放送が流れている。誰も見ていないが、つけっぱなしだ。BGMはMDプレイヤー。今日はSPEEDのアルバムが回っている。
俺はレジ横のiモード端末を開く。仕入れ業者からの納品確認メールが三件。画面の隅に、政策レビュー通知のアイコンが点滅している。
「和也、あなた今月二回目よ」
「知ってる」
俺は端末をタップする。第0x7A2F1内閣ユニット、内閣総理大臣・川辺和也。任期は五分間。
画面には政策変更リクエストが一つだけ表示されている。「喫茶店営業時間帯における給湯設備の温度規制緩和について」。ステークホルダーは全国喫茶店組合連合。党ドクトリン署名の検証アルゴリズムがすでに走っている。
「承認でいいんじゃない? うちも朝のコーヒー、もう少し熱くしたいって常連さん言ってたし」
「そうだな」
俺は承認ボタンを押す。画面に「党ドクトリン署名:検証中」の文字が浮かぶ。三秒後、「承認完了」。
カウンター下の緑色のランプが一瞬強く光る。政策が、どこかの暗号チェーンに刻まれたらしい。
任期終了まで、あと二分。
俺はコーヒーメーカーのスイッチを入れ直す。いつもより少し高めの温度設定にしてみた。さっき承認した政策が、もう反映されているのかもしれない。
「和也、お湯の音が違うわね」
「うん、ちょっと熱くしてみた」
「いいと思う。明美姉さんのカフェでも、この温度だったわ」
イヤホンの向こうで、姉が笑った気がした。
任期が終わる。画面に「お疲れ様でした」の文字。
俺は端末をポケットにしまい、カップを磨き始める。店の外では、誰かが駅前でティッシュを配っている。平成のどこかの午後みたいな景色が、ガラス越しに見える。
カウンター下のランプは、また規則正しく点滅している。
夕方の常連客が来るまで、あと一時間。俺はMDを裏返して、もう一度SPEEDを流した。