磁気ストライプの残響と、すり替わった小言
──平成0x29A年 日時不明
壁に掛かったアナログ時計の長針が、痙攣するように同じ場所を行ったり来たりしている。この「サンクス」のバックヤードには窓がなく、端末に表示される日付も『記録欠損』のまま点滅している。今は昼なのか夜なのか、それとも平成何年なのか、正確に知る者はこのブロックにはいない。
「佐野様、自動運転シャトルの到着が遅延しています。位置情報ビーコンの信号によれば、三つ前のハブでスタックしているようです」
耳元で鳴る無機質な声に、私はため息をついた。代理エージェントの『ユニット・ガンマ』だ。本来なら、ここにいるのは三年前の事故で亡くなった母、紀子の人格のはずだった。だが、彼女は今、法定倫理検査のためにサーバーの奥底で「洗浄」を受けている。あの口うるさい、けれど温かい声が、今はひどく恋しい。
「わかってる。どうせアルゴリズムの渋滞だろう。いつものことだ」
私は積み上げられた折りたたみコンテナの山に腰を下ろし、支給された「通帳」を開いた。平成をエミュレートしたこの社会では、給与や功績値はなぜかこの紙の束に印字される。磁気ストライプが摩耗しているのか、さっきからATMがこれを受け付けてくれない。母がいれば「あんたの扱いが雑なのよ」と叱ってくれただろうに。
その時、視界の右隅で、どす黒い赤色の通知が爆ぜた。
【緊急:第0x7C2A内閣ユニット・総理大臣に選出されました。任期:300秒】
心臓が跳ねた。よりによって、母がいないこのタイミングで。私は震える指でバックヤードの管理端末を叩き、閣議決定リクエストの差分を呼び出す。代理エージェントが淡々と読み上げる。
「政策変更リクエスト番号402-B。党ドクトリンに基づく『住民基本台帳と皇室遺伝子ネットワークの照合アルゴリズム』の最適化、および『旧式磁気記録媒体の暗号署名更新』。承認しますか?」
何のことだかさっぱりわからない。だが、この「磁気記録媒体」という言葉に指が止まった。もしかして、これを承認すれば、私の通帳も直るのではないか?
「……承認。党ドクトリンに準拠する」
私が署名ボタンをスライドさせると、暗号化された連鎖システムが瞬時に反応し、世界の一部が書き換わった。任期終了まであと十秒。私は安堵して、再び通帳を眺めた。これで明日には、ちゃんとお金が下ろせるはずだ。
「……康平。あんた、またそんなところで油売ってるの?」
不意に、耳元で声がした。代理エージェントの無機質な響きではない。懐かしい、けれどどこか違う、妙に甲高い女の声。
「母さん? 検査、もう終わったのか?」
「母さんじゃないわよ。叔母の節子よ。あんたの母親が検査中で不在だから、私がバックアップの親族リストから繰り上げられたの。それにしても、このバックヤード、埃っぽいわね。ちゃんと掃除してるの?」
血の気が引いた。節子叔母さん。母が生前、その過干渉と毒舌を理由に「私が死んでもあいつにだけは私のデータのバックアップを触らせないで」と遺言していた、父方の天敵だ。
「……まさか、さっきの更新のせいか?」
「あら、感謝してほしいわね。あんたが承認した新しい署名プロトコルのおかげで、私の人格データが『最適』と判断されて、このユニットにマウントされたんだから。これから二十四時間、みっちり生活態度を指導してあげるわ」
壁のアナログ時計が、皮肉にもその時だけ、カチリと一秒分だけ正確に進んだ。自動運転シャトルが到着する音が外で響く。これから始まる「叔母」との二十四時間を思い、私は通帳を握りしめたまま、壊れた時計を見上げることしかできなかった。