センター問い合わせの長い夜

──平成0x29A年01月27日 00:30

 視界の端で、日付表示が平成0x29A年01月27日 00:30へと切り替わった。
 第七金融ブロック、深夜対応の融資審査ブース。防音壁に囲まれた狭い個室に、ファンの回転音だけが響いている。

「お客様、申し訳ありません。もう一度、右手の親指をセンサーに強く押し当ててください」

 ヘッドセットのマイクに向かって、私はなるべく事務的な声を絞り出した。目の前のモニターには、数キロ離れた無人契約機の中にいる依頼主の姿が粗い画質で映し出されている。ダウンジャケットを着込んだ初老の男性だ。彼は焦燥しきった顔で、ガラス面の読み取り機に指をねじ込んでいた。

「大崎くん、この人のバイタル、脈拍が上がりすぎよ。嘘をついてるか、単にトイレを我慢してるか」

 脳内の聴覚野に直接響く声。三年前に病で亡くした妻、麻衣だ。家計の管理に厳しく、私の小遣い制を導入した張本人である彼女のエージェントは、この職場においては最強の補佐役だった。ただし、勤務時間外の残業には滅法うるさい。

「エラー。生体認証、不一致。再試行してください」

 合成音声が無慈悲に告げる。男性が端末を拳で叩く音が、マイク越しにノイズとなって私の耳を打った。
 私の手元の業務端末は、懐かしの「iモード」公式サイトを模したインターフェースで構成されている。縦長の画面、カクカクしたフォント、そしていつまでも終わらない「センター問い合わせ中」のアニメーション。現代の金融システムは数十万の内閣ユニットによる並列承認が必要だが、その出力形式は何故かこの前時代的な12キー操作のUIに落とし込まれているのだ。

 腰のベルトに装着したポケベルが震えた。
 液晶を確認するまでもない。上司からの『0840(おはよう=起きろ/働け)』か『119(至急)』のどちらかだ。確認すると『724106(何してる)』だった。数字の語呂合わせによる叱責は、このブロックの風習として定着してしまっている。

「システム側の遅延です。少々お待ちください……」

 私は男性に声をかけつつ、裏で走っている承認プロトコルのログを追った。ブース内に浮かぶ半透明のホログラム掲示板には、現在の金利(トイチに近い暴利だ)と、無数の免責条項が流れている。その奥で、承認状況を示すステータスバーがピクリとも動かない。

「ねえ、この遅延、変じゃない?」麻衣が私の視神経に相乗りしてログを覗き込む。「第402ヘゲモニー期のドクトリン参照でループしてる。どこかの内閣ユニットが、署名のハッシュ値を間違えてるわよ」
「またか。5分総理の誰かが寝ぼけてボタンを押し間違えたな」
「それか、今日のラッキーカラー判定で揉めてるか」

 冗談ではないのがこの世界の辛いところだ。高度な暗号技術とブロックチェーンで統治される我々の社会は、その演算リソースの大半を「平成的な情緒」の再現と維持に費やしている。
 画面の中の男性が、祈るように両手を合わせた。彼の背後には「即日融資」「プライバシー厳守」のポスターが貼られているが、実際にはこうして私が監視し、亡き妻が品定めをし、数十万の仮想内閣が合議を行っている。

 突然、iモード風の画面がパッと切り替わった。
 アンテナピクトが三本立ち、軽快な着信メロディ(単音)がスピーカーから流れる。

『承認完了。融資を実行します』

「通った!」
 私は安堵のため息をつき、最終実行キーである「i」ボタンを親指で押下した。量子暗号鍵が生成され、契約が成立する。
 無人契約機の男性が、排出口から出てきた明細書をひったくるように掴んだ。彼の顔に歓喜の色が浮かぶ。

「……で、いくら借りたの?」麻衣が呆れたように尋ねた。

 私は契約内容の最終行を確認し、言葉を失った。
 融資額、315円。
 使用目的、着メロサイト「J-POP天国」の月額会員費決済。

「え?」思わず声が出た。

 深夜0時半。数十万の内閣ユニットと、高度な生体認証と、私の残業時間を費やして合意形成されたのは、たった一曲の着メロをダウンロードする権利だった。
 モニターの中で、男性はガラケー型端末を操作し、満足げにブースを出ていく。おそらく、誰かに送りたかったのだろうか。それとも、自分だけの夜のために必要だったのか。

 ポケベルが再び震える。
『0906(遅れる)』ではなく『105619(登録行く)』──いや、これは『10(と)56(ご)19(いく)=特に行く』? 違う、ただの乱数ノイズだ。システム通過の余波で通信がバグっている。

「315円のために、あんたの時給より高いコストがかかったわね」
 麻衣がクスクスと笑う。
「でもまあ、いいじゃない。あの人、最後に笑ってたわよ」

 私は肩の力を抜き、「接続を切断します」のメニューを選んだ。
 ブースのホログラムが消灯し、静寂が戻る。どっと疲れが出たが、不思議と悪い気分ではなかった。
 世界は歪で、効率は最悪だ。けれど、誰かが深夜にどうしても聴きたかった一曲のために、世界中が5分だけ真剣に計算をしたのだと思えば、それはそれで悪くない。
 私はカバンから缶コーヒーを取り出し、プルトップを開けた。