焼き付いた虹、周回遅れの挨拶
──平成0x29A年09月26日 08:40
地下三階の保管庫は、カビと帯電防止剤の匂いが混ざり合っている。午前八時四〇分。始業のチャイムまではあと五分あるが、俺は早々に作業着へ着替え、手元のeペーパー端末を指で弾いた。画面のリフレッシュレートが低く、黒い粒子が一度反転して白に戻るまで一秒ほど待たされる。表示されたのは、MS-DOS風の無骨なフォントで記された『廃棄予定リスト』だ。
「ねえ、恭平。ビデオカメラの充電、ちゃんとした?」
脳内の骨伝導インプラントから、麻里の声が響く。少し鼻にかかった、機嫌が良い時の声だ。
「ああ、したよ」
俺は口に出さず、意識だけで短く応答する。目の前には、プラスチックのケースに入った大量の円盤が積まれている。七〇〇メガバイトの容量を持つ、記録用CD-Rの山だ。レーベル面には油性マジックで『運動会』『家族旅行』『バックアップ』と、誰かの筆跡が踊っている。
「予備のバッテリーも持った? あの子、かけっこは三番目だからね。見逃さないでよ」
「分かってる。三脚も用意した」
嘘だ。あの子――俺たちの息子はもう二十歳を超え、第4区の大学寮にいる。今日は運動会ではないし、麻里はもう四年前に死んでいる。
彼女のエージェント・プログラムには、微細な記憶更新不備がある。特定の気圧配置や湿度の日に、思考ルーチンが十数年前の九月二六日に巻き戻ってしまうのだ。正規のメンテナンスに出せば修正されるバグだが、俺は報告を怠り続けている。バグだと分かっていても、元気だった頃の彼女が、そこにはいるからだ。
俺は廃棄リストのチェックを続けながら、一枚のCD-Rケースを開いた。中から、あめ色の半透明なネガと、一枚のフィルム写真が滑り落ちる。色褪せた光沢紙の中で、若い夫婦と幼い子供がピースサインをしていた。背景はどこかの遊園地だろうか。知らない他人の幸福が、物理的な色素として定着している。
『――通知。宮内庁サーバーより、遺伝子ネットワーク同期信号を受信』
不意に視界の端へシステムメッセージが割り込んだ。脊髄がかすかに熱くなる感覚。国民のDNAに埋め込まれた皇室認証コードが、定時チェックのために共鳴したのだ。大した意味はない。ただの生存確認のようなものだ。
「あら、今の揺れ、地震かしら?」
麻里が不安げに言う。彼女の古いアルゴリズムは、この同期信号を物理的な揺れとして誤認しているらしい。
「いや、トラックが通っただけだ。大丈夫だよ」
「そう? ならいいけど。……ねえ、お弁当の卵焼き、甘い方にしたから」
俺はフィルム写真をケースに戻し、廃棄ボックスへ放り込むのをやめた。代わりに「保留」の棚へそっと置く。
eペーパーの画面がようやく切り替わり、次のリストを表示した。修正パッチを当てれば、麻里は「今の私はデータに過ぎない」と正しく認識し、冷静な助言者に変わるだろう。だが、この薄暗い地下室で、終わったはずの運動会の話を聞き続けることも、俺にとっては必要な点検作業の一部だった。
「楽しみだな、卵焼き」
俺はそう答え、誰もいない地下室で、静かにCDケースの埃を払った。