供物台のVHS、夜明け前の氏子帳
──平成0x29A年01月31日 02:30
午前二時半の社殿は底冷えがする。
石段を掃いた箒を壁に立てかけ、私は拝殿の裏手に回った。供物台の上に、頼んでおいたものが届いている。段ボール箱ひとつ。ガムテープを剥がすと、中にはVHSテープが七本、紙の地図が一枚、それから先代宮司の法衣が畳まれて入っていた。
「全部揃ってる。テープのラベル、読めるか」
耳の奥で叔母の声がする。菅野靖江、享年六十一。三年前に肝臓を悪くして逝った叔母は、今は私のエージェントとして、この静かな時間帯も一緒に起きている。
「読める。『平成九年 節分祭 奉納舞』、『平成十四年 秋季例大祭』——」
「十四年のやつが大事。あの年から氏子の名簿の付け方が変わったの」
叔母がそう言うのには理由がある。
明日——正確にはもう今日だが——午前十時から、この菅野神社で節分の追儺式をやる。問題は、氏子名簿だった。
この神社は宗教施設ブロック第七管区に属していて、祭事の執行にはブロックチェーン投票で氏子総代の承認が要る。手順としては、デジタルツインに登録された祭事プロトコルを参照し、氏子名簿と照合して投票権者を確定し、承認を取り付ける。毎年やっていることだ。
ただし今年は、先代宮司の死去に伴ってデジタルツインの管理権限が宙に浮いた。先代のエージェントが倫理検査に入ったまま三ヶ月戻らない。デジタルツイン上の祭事データには先代の署名ロックがかかっていて、私の権限では開けない。
だからVHSなのだ。
「映像に映ってる式次第が、デジタルツインに入る前の原本になるから」と叔母は言った。「あんたが生まれる前の話だけど、あの頃はまだ全部カメラで撮って棚に並べてた」
紙の地図を広げる。管区内の氏子分布図。手描きの赤丸が点々と打ってあり、丸の横に苗字が添えてある。インクが薄れて読みにくいが、叔母の記憶が補ってくれる。
「右上の角、『御園』って書いてあるでしょう。この家はもう絶えてるから外していい。その下の『丹羽』は——」
一軒一軒、照合していく。私は手元のガラケー——正確にはガラケー筐体にAR照合アプリを載せた端末——で名簿の仮リストを打ち込みながら、叔母の声を聞いた。
投票の通知は午前六時に飛ばす。氏子たちのエージェントが代理承認する家も多いだろう。生きている人間が寝ていても、死者たちの判断で祭りは回る。それが少し奇妙に思えて、私は手を止めた。
「靖江さん」
「ん」
「この神社、遺伝子照合のほう、最後に通ったのいつだっけ」
沈黙。叔母は知っている。この神社の祭神勧請の系譜を辿ると、遠く皇室の祭祀に繋がる。遺伝子ネットワークの末端ノードとして、十年に一度の照合が定められている。
「一昨年。あんたの血で通ったでしょう」
「そうだった」
自分の血に薄く流れているものについて、私は普段考えない。ただ針を刺して照合機に載せるだけだ。
VHSのラベルをもう一度見る。先代の几帳面な字。この人の声はもう、倫理検査の向こう側にある。
「映像、再生できる機械あるの」
「社務所の押入れ。たぶんまだ動く」
私は段ボールを抱えて石段を降りた。夜明けまであと三時間。テープの中の平成九年の節分祭では、きっと先代がまだ若い声で祝詞を上げている。
その声を聴いて式次第を写し取り、投票にかけ、承認が降りれば、今年も豆を撒ける。
それだけのことなのに、段ボールがやけに重かった。死者の手順を引き継ぐというのは、こういう重さなのだと思った。