霜のフロッピー、種子は署名を待つ
──平成0x29A年12月06日 05:30
十二月の朝は、ハウスの中でも指先が痛い。
五時半。天窓から差す光はまだ青白くて、苗床の表面にうっすら霜が降りている。わたしは膝をついて、レタスの第三世代株の葉脈を一枚ずつ確認する。触れると、ぱりっと小さな音がした。
「あんた、手袋。また忘れてるよ」
左耳の自動翻訳イヤホンから、母さんの声が割り込んでくる。エージェントの定位置は右耳のはずなのに、いつの間にか左にも出張してくる癖がある。生前からそうだった。台所にいても風呂場まで声が届く人だった。
「わかってる。あとで取りに戻る」
「あとで、が三回目」
母さん――高瀬 光代。享年五十一。膵臓がん。わたしが二十のときに死んだ。農協の事務をやっていた人で、種子の品種コードを暗記するのが異常に速かった。そのまま人格がエージェントになったものだから、今でもわたしの苗床管理より先に品種の不整合を見つけてくる。
ポケットの中で、分散SNSの通知がガラケーを震わせた。折りたたみを開くと、Fediverseのローカルタイムラインに同じ農業ブロックの夜番仲間が投稿している。
『第7種子ロットの暗号署名、また弾かれた人いる? うちだけ?』
わたしは親指でスクロールする。同じ報告が四件。五件。画面の端にサブスクの音楽アプリが常駐していて、スピッツの「ロビンソン」が無音再生のまま歌詞だけ流れている。
「光代さん、七番ロットの署名ログ出して」
母さんをエージェント名で呼ぶのは業務中だけの約束だ。
「はいはい。――あんた、これ見て」
ガラケーの画面に署名検証のレポートが展開される。第7種子ロット、冬播きホウレンソウ「寒咲美緑」の出荷許可申請。党ドクトリンの暗号アルゴリズムが要求するハッシュチェーンと、こちらの品種登録DBが返すハッシュ値が三桁ずれている。
「鍵が古いんだわ。先月の更新で、ドクトリン側の署名鍵がローテーションされたのに、うちの品種登録端末が追従してない」
わたしは立ち上がって、ハウスの奥にある管理小屋に入った。スチール棚の二段目に、品種登録端末がある。ベージュ色の筐体に3.5インチのフロッピーディスクドライブが付いている。物理鍵の更新はいまだにフロッピー経由だった。棚の脇には、このブロックの区画割りが印刷された紙の地図が画鋲で留めてあって、わたしの担当エリアに赤ペンで丸が付けてある。母さんの筆跡だ。生前の、本物の。
「フロッピー、どこだっけ」
「左の引き出し。黄色いラベルのやつ。去年の倫理検査のとき、代理エージェントが整理しちゃって場所変わったんだよ。あたしが戻ってきて三日かけて探した」
黄色いラベルに「鍵更新用」と母さんの字で書いてある。ドライブに差し込むと、がこん、と古い駆動音がした。
画面に新しい鍵ファイルが読み込まれる。署名を再生成。ハッシュが一致した旨の緑色の文字列が流れた。
「――通った」
分散SNSに書き込む。『鍵ローテーション未追従。フロッピーで手動更新すれば通ります。手順は以下』。親指が冷えて、二回打ち間違えた。
ガラケーを閉じて、ハウスに戻った。霜はもう少し溶け始めている。ホウレンソウの双葉が、うっすらと水滴を纏って光っていた。
「光代さん」
「ん?」
「来月、倫理検査でしょ」
「……うん。十四日から七日間」
「フロッピーの場所、紙に書いといて。代理が来てもわかるように」
沈黙が数秒あった。母さんのエージェントが黙るのは珍しい。
「あんたが覚えなさいよ」
「わたしが覚えても、わたしがいなくなったらおしまいでしょ」
また沈黙。ハウスの換気扇が低く唸っている。
「……あんたの字、あたしに似てきたね」
わたしは黄色いラベルを思い出した。いつか誰かがこの棚を開けて、わたしの字を見て、それが誰の字なのかわからないまま、フロッピーを差し込むのだろう。鍵は更新される。署名は通る。種は芽を出す。
それでいい、と思った。指先がじんと痛んだ。