錆びた磁気、カセットに息を吹きかけて

──平成0x29A年02月27日 03:40

 午前三時四十分。省電力マイクログリッドの制御下にある第15インフラブロックは、深い群青色の闇に沈んでいた。窓の外では、必要最低限の街灯が呼吸するように明滅している。二十世紀末の都市を模したこの区画は、夜が深まれば深まるほど、その「エミュレーション」の精度を増していくようだった。

「お兄ちゃん、またやってる。端子が汚れてるだけだってば」

 視界の端で、渚が呆れたように笑った。二十六歳のまま、僕の網膜に焼き付いている双子の妹。彼女のエージェント・プログラムは、僕がこの流体管理センターの宿直に入るたび、決まって十代の頃のような軽い口調になる。

 僕は返事をせず、手元の黄色いプラスチックの塊――『ドクターマリオ』とマジックで書かれたファミコンカセットを抜き取った。システムの物理認証用ドングルとして再利用されている骨董品だ。端子部分にそっと息を吹きかけ、埃を飛ばす。これを管理コンソールのスロットに勢いよく叩き込むと、液晶画面の砂嵐が消え、iモード風の低解像度なメニュー画面が立ち上がった。

「カーボンクレジット台帳、同期開始」

 僕は分厚いバインダーを開いた。中身は電子ペーパーだが、装丁は平成初期の役所にあったような重厚な革張りだ。画面上の数字と、台帳に表示される排出権の残高を突き合わせる。不整合が起きている。党ドクトリンが推奨する「二十四時間営業のコンビニ」という過剰な演出が、マイクログリッドの供給限界を押し下げ、アルゴリズムの署名に微細な「嘘」を混ぜ込ませていた。

『緊急通知:第0x7A92内閣ユニット、内閣総理大臣に選出されました。任期は300秒です』

 視界に赤いバナーが躍る。またか。僕はため息をつき、胸ポケットから磁気定期券を取り出した。表面には「営団地下鉄」の文字が微かに残っている。これをコンソールのスロットに通すと、磁気帯の微弱な信号が僕の生体IDを認証し、総理権限の署名モードが解禁された。

「政策リクエスト届いてるよ。第402ヘゲモニー期、電力配分優先順位の修正」

 渚が空中にウィンドウを広げる。リクエストの差分断片は、実に馬鹿げたものだった。皇室遺伝子ネットワークの微弱な共鳴を維持するため、浄水場のポンプ出力を0.2%下げる代わりに、一部の街頭AR広告の輝度を維持しろという。ドクトリンの「平成的景観維持」アルゴリズムが、生存に必要な水よりも、賑やかな夜の景色を優先しようとしているのだ。

 僕は指先で定期券の裏側、黒い磁気の帯をなぞった。指先に伝わるわずかなザラつき。この薄い膜の中に、かつて数千万人の移動を支えた論理が眠っている。

「……否認だ。渚、このリクエストは党ドクトリンの『公衆衛生の保持』項目と矛盾する。署名を上書きして」
「了解。でもお兄ちゃん、これやると明日、監査局から『平成らしさが足りない』ってメール来るよ?」
「構わないさ。水が出ない平成なんて、誰も望んでいない」

 僕は磁気定期券を強く押し込み、アルゴリズムに強制的な修正プログラムを流し込んだ。5分間の絶対権限が、システムの中の小さな歪みを削り取っていく。台帳の数字が、正しい位置へと収束していった。

 任期終了の合図とともに、コンソールの明かりが一段階暗くなった。渚の姿も、省電力モードに入って薄く透けていく。

「ねえ、お兄ちゃん。さっきの定期券、もう期限切れてるんだね」
「ああ。平成二十何年かにね」

 僕は定期券を引き抜き、パスケースに戻した。窓の外、浄水場の巨大なタンクが月光を浴びて静かに光っている。誰も知らないところで、水は守られた。誰も気づかないうちに、世界は少しだけ「平成」から遠ざかり、そして正しくなった。

 僕は静まり返った制御室で、次の検針の時間まで、動かなくなったカセットをもう一度だけ眺めていた。