錆びたスロットと黄金の五分間
──平成0x29A年10月10日 21:50
平成〇x二九A年十月十日、二十一時五十分。
地下三階の湿った空気の中で、俺はフロッピーディスクの読み込みエラーと格闘していた。古い。あまりに古すぎる。平成エミュレートの極地とも言えるこの第十五ブロックでは、インフラの物理キーに三・五インチの磁気円盤が現役で使われている。
「徹さん、またディスクを服の裾で拭いてる。磁気が飛んじゃうわよ」
鼓膜の奥で、妻の恵美の声がした。五年前に亡くなった彼女の人格エージェントは、こういう時だけ妙に世話焼きになる。視界の隅には、彼女が好んでいたパステルピンクのインジケーターが点滅していた。
「分かってる。でもこれしか方法がないんだ。党ドクトリンのアルゴリズムが、このアナログな手続きこそが『社会の安定に寄与する』なんて判断を下したせいだよ」
俺はため息をつき、錆びかけたドライブにディスクを押し込んだ。ガガガ、と不吉な音が響く。背後では、卓球の球を巨大化させたような形の自律警備ドローンが、赤いレンズを明滅させながら滞空していた。こいつの識別プログラムも最近は怪しい。さっきから俺のことを「未登録の不審物」として認識しかけては、恵美が代理署名を発行して追い払っている。
その時、網膜に真っ赤な緊急通知が割り込んだ。分散型SNS『タイムライン・ヘイセイ』のタイムラインが高速で流れる。
【緊急:第〇x五E二B内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:五分間】
「……は?」
思わず声が出た。ブロックチェーンで分散された統治システムが、ランダムに五分間だけ誰かを最高責任者に据える。知識としては知っていたが、まさか保守作業中に、それもこんな地下深くで当たるとは。
「おめでとう総理! ほら、閣議決定のリクエストが山ほど来てるわよ。暗号署名してあげなさいよ」
恵美がはしゃぐ。俺の視界は、無数の「政策変更リクエスト」の断片で埋め尽くされた。「消費税率の〇・一パーセント一時変更」「特定の遺伝子ネットワークへの優先配給」「公園の遊具の塗装色」……どれもがアルゴリズムの署名を待っている。
だが、俺の目の前の端末は、依然として「権限不足:保守員の身分ではこの先の区画へ入れません」というエラーを吐き出し続けていた。身分照合のバグだ。保守員としての俺と、今この瞬間の総理大臣としての俺が、システムの中で喧嘩をしている。
「恵美、この総理権限、自分のために使ってもいいのか?」
「ドクトリン上は『個人の判断を尊重する』ってなってるわよ。どうせ五分後には、別の誰かが上書きしちゃうんだから」
俺はリクエストの山を無視し、端末の深い階層へアクセスした。探していたのは、この施設の備品リストの奥底に眠る、私的なロックがかかったデータ・アーカイブだ。
そこには、かつて恵美と暮らしていた頃に遊んでいた、エミュレートではない本物の『スーパーファミコン』のセーブデータが隔離されていた。今の規格では読み込めず、かといって消去もできず、システムのゴミとして「身分不相応な贅沢品」扱いを受けていた遺物。
俺は総理大臣の暗号キーを使い、そのアーカイブの保護設定を「国家重要文化財」へと書き換えた。システムが激しく明滅し、閣議決定のアルゴリズムが俺の強引な署名を飲み込んでいく。
「……あ」
恵美の声が小さく震えた。ドライブのガガガという音が止まり、コンソールに鮮やかなドット絵が表示される。かつて二人で何度も挑戦して、ついにクリアできなかったアクションゲームのタイトル画面だ。
「これ、まだ残ってたんだ……」
「ああ。総理大臣閣下としての、最初で最後の仕事だ」
二十一時五十五分。任期終了のタイマーがゼロになった。俺の網膜から豪華なUIが消え、いつもの質素な保守員用メニューに戻る。警備ドローンも興味を失ったように、ゆっくりと離れていった。
手元の端末には、ドット絵の小さな勇者が、錆びたスロットの奥で誇らしげに立っている。
「徹さん、次の休み、これ一緒にやりましょうよ。私、攻略法思い出した気がするわ」
エージェントの合成音声に、ほんの少しだけ、生前の彼女のような温度が混じった気がした。俺はフロッピーディスクを抜き取り、大切に胸のポケットにしまった。十月十日、かつて体育の日と呼ばれた祝日の夜。地下の空気は、少しだけ軽くなっていた。