インクの匂いと千切れた糸

──平成0x29A年10月09日 22:00

時刻は平成0x29A年10月09日 22:00。
俺は第6物流ブロックの夜間配送エリアに立っていた。古びたワンボックス型の自律駆動車の荷台で、今日の最終便の仕分けをしている。

耳元で、祖父・健三の嗄れた声が響く。
『湊、その荷物は第3区画のボックスだ。宛名の印字が掠れとるから気をつけろ』
祖父は元郵便局員で、老衰で亡くなった後、俺の近親人格エージェントとして脳内チップに移植されている。

「わかってるよ、じいちゃん」
手元にある配達管理端末は、なぜか分厚い「通帳」の形をしている。ページを開くと、電子ペーパー上に配送ルートと暗号化された荷物データが印字される仕組みだ。通信網へ接続するには、側面の極細スリットに緑色の「テレホンカード」を差し込む必要がある。システムが「社会安定に最適」と判断した平成エミュの産物とはいえ、つくづく面倒な仕様だ。

ターミナルの天井スピーカーからは、『夜間配送の皆様、お疲れ様です。本日は党ドクトリンに基づく安全運転を……』と、抑揚のない合成音声アナウンスが繰り返されている。

指定されたマンションの宅配ボックスの前に着く。荷物を入れ、扉を閉める。本来なら、ここで受取人の網膜データと、背後で薄く広く繋がる「遺伝子ネットワーク」──かつての天皇制に由来する皇室遺伝子の伝播網──を照合して、所有権の移転が完了する。
ところが、何度通帳をスキャナーにかざしても、ボックスの「量子乱数ロック」がカチリとも言わない。

『ネットワークに微細な異常が出とるな』と祖父が言う。『遺伝子の照合ツリーが、末端で千切れかかっとるらしい』
「マジかよ。これじゃ配達完了にできない。持ち戻りか?」
『昔なら、隣の山田さんに預けとく、なんて融通も利いたんだがな』と祖父は苦笑する。

俺はテレホンカードを一度抜き、端末の端子に息を吹きかけてから再度挿入した。そして、通帳型端末のタッチパネルで、党のアルゴリズムの公然の秘密となっているバックドアを叩く。現行制度との差分断片として「遺伝子ネットワークのゆらぎを許容し、配達を完了とする特例措置」の政策変更リクエストを、内閣ユニットの連鎖システムに放り込んだ。

数十万の内閣ユニットのどこかで、今この瞬間にランダムで5分だけ総理大臣を務めている誰かが、俺のこのちっぽけなリクエストをレビューしているはずだ。

数秒の静寂。
不意に、ガチャリ、と重低音を立てて量子乱数ロックが解除された。
『受領、確認シマシタ』という合成音声アナウンスが響き、通帳の最終ページに「配達完了」の四文字がジジジと熱転写で印字された。

見知らぬ誰かの5分間の権限が、俺の立ち往生を救ってくれたのだ。
遺伝子ネットワークの糸は、どこかで微細にほつれてしまっていても、俺たちはまだ不器用に繋がり合っている。夜の冷たい空気の中で、通帳から立ち上るインクの匂いに、俺はほんの少しだけ胸が温かくなるのを感じた。