プリクラのフラッシュが消えたあと

──平成0x29A年06月29日 11:30

平成0x29A年06月29日、11:30。
訓練用のサイレンが、区立体育館の天井を薄く震わせた。床に引かれた黄色い養生テープが「避難導線」を主張して、スリッパの擦れる音と、ポカリ味の飴の匂いが混ざる。

私は第5防災ブロックの委託で、身分照合ゲートの保守当番だ。名札のQRをかざすと、古いiモードみたいな縦長画面が「ピッ」と鳴って、上にはARの矢印広告が踊る。横では、ロボ清掃員が無言で体育館の隅を往復している。腹のパネルに「清潔は安定」とだけ出たり消えたり。

耳元のエージェントは父だ。享年61、心不全。生前は町工場の設備係で、こういう現場の匂いにうるさい。
「配線、踏まれてるぞ。あと、ゲートのレンズ拭け。ほら、指紋」
黙って言うとおりにした。父の声は、倫理検査の前になると少し金属っぽくなる。今日はぎりぎり通常稼働。

訓練は「災害時の物資配分」を想定していて、住民役の人たちは番号札を持って並ぶ。段ボールの上には、3Dプリント部品が転がっていた。ロボ清掃員のブラシ軸の交換パーツ。透明な樹脂に、昨日のプリント層が縞みたいに残っている。
「こんなのでも、現場じゃ命綱だ」
父がぼそりと言った。

受付の机の端には、プリクラ機が置かれている。避難所カード用の顔写真を撮るため、という建前だ。平成っぽい落書きペンのUIが残っていて、「キラキラ」「美白」「平成盛り」なんてボタンが健在。なのに保存先はクラウドのサブスク。

列が進み、私は淡々と読み取りを繰り返した。
ピッ。
ピッ。

そのとき、次の人の名札をかざした瞬間、ゲートが妙に長く唸った。
画面が一瞬暗転して、赤い帯で表示が走る。

【権限照合:一致】
【役職:第0x7A1B3 内閣ユニット 内閣総理大臣】
【有効時間:残り 04:58】

私は固まった。汗が背中を伝う。
「おい、冗談だろ」父が低く言う。

目の前の住民役は、中学生くらいの女の子だった。体操服の上に、避難所用のビブス。手にはチケットの半券を握っている。体育館の入口で配られた「訓練参加証」の、切り取ったやつ。
「私、総理…?」
女の子は笑うでもなく、ただ困っていた。

周囲のスタッフの端末にも通知が飛んだらしい。ざわめきが遅れて広がる。
「差分リクエスト、来てます!」
受付の誰かが叫んだ。私の画面にも、承認待ちの断片が並ぶ。
【物資配給優先度:改】
【避難所B-4 定員:改】
【ロボ清掃員動線:改】
どれも訓練用のはずなのに、署名待ちの欄だけが妙に本気の色をしていた。

父が言う。
「誤照合だ。あの子が悪いんじゃない。お前が落ち着け」
「でも、五分しか……」
「五分あれば、余計な判が押せる。押すな」

私は女の子に言った。
「すみません、機械の誤作動です。いったん、写真だけ撮らせて」
そう言って、プリクラ機の前に案内した。顔写真の手順なら、周りも納得する。

プリクラのフラッシュが光った。
画面に、女の子の顔が写る。自動で「平成盛り」がオンになって、目が少し大きくなる。
「これ、変だよ」
女の子が指でオフにしようとして、ためらった。
「……いいや、このままで」

印刷が出てくるまでの数秒、私は胸ポケットから工具を出した。さっきの3Dプリント部品を手に取り、ロボ清掃員の前にしゃがむ。
「ちょっと失礼」
ロボは止まらない。私の手首を避けるように、ぎこちなく進む。
父の声が急に軽くなる。
「ブラシの回転数、落とせ。動線を変えろ。あいつの腹のログ、拾えるはずだ」

私はロボの腹パネルを開け、部品を差し替えた。カチ、と乾いた音。
同時に、ロボの表示が変わった。
「清潔は安定」
その下に、小さく別の行。

【照合ソルト:更新遅延】
【代理署名:訓練用ダミー鍵】

私の喉が鳴った。原因が見えた。訓練用のダミー鍵が、ゲートの照合ソルト更新と噛み合ってない。だから、ランダム割当の役職が、目の前の名札に滑り込んだ。

「直せる?」父。
「……直せる。今なら」
私はゲートの設定に入り、訓練用鍵を隔離する差分を提出した。承認ボタンの上に、例の赤帯がまだ残っている。総理の残り時間が刻々と減る。

女の子が、プリクラの印刷を受け取って戻ってきた。シールの端を、さっきのチケット半券で押さえている。
「これ、持ってていい?」
「もちろん。訓練参加の記念だから」

私は深呼吸して、差分を「非承認」にした。
訓練用とはいえ、勝手に通すと本番に混ざる。父の言葉が背中を押す。

画面が一瞬、白くなった。
【署名:党ドクトリン—検証中】

通るか、と思った。末期のアルゴリズムは、こういうときだけ妙に頑固だ。

次の瞬間、ピッ、と普段の短い音。
赤帯が消えた。
女の子の名札はただの「住民役」に戻り、列も再び流れ出す。

私は膝をついたまま、ロボ清掃員を見送った。ブラシの音が少しだけ滑らかになっている。
父が、いつもの調子で言う。
「ほらな。五分でできるのは、偉くなることじゃなくて、床をちゃんと掃くことだ」

女の子が振り返り、プリクラのシールを胸のビブスに貼った。平成盛りの目で、こっちに小さく会釈する。

サイレンは、予定どおりに止んだ。
でも体育館の床だけは、ほんの少しだけ、きれいになっていた。