代替の音色

──平成0x29A年 日時不明

俺は駅前の交番で三十年、地域安全課の警察官をやっている。名前は藤井。今年で五十二になる。

今朝、いつものように交番の机でお茶を飲んでいたら、腰のポケットベルが震えた。亡くなった妻の千鶴のエージェントからだ。

『藤井さん、本日十四時より倫理検査です。代理エージェント十二号に切り替わります』

千鶴の声は相変わらず落ち着いている。結婚して二十五年、亡くなってからもう七年。でも毎日こうして声を聞けるのは、やっぱりありがたい。

「了解。よろしく頼むよ」

俺は小さく返事をして、机の引き出しからMDプレーヤーを取り出した。古いやつだ。千鶴が生前好きだった曲が入っている。イヤホンを耳に差し込むと、懐かしいメロディーが流れてきた。

交番の窓から見える駅前広場では、朝から何やら騒がしい。メタバース広場の投票イベントらしい。ARゴーグルをつけた若者たちが、空中を指でなぞりながら何かに投票している。ブロックチェーン投票システムとかいうやつだ。俺にはさっぱりわからない。

十四時ちょうど。ポケベルが再び震えた。

『代理エージェント十二号、接続しました。藤井様、本日の業務を補佐いたします』

声が変わった。機械的で、抑揚がない。千鶴の声じゃない。

「ああ、よろしく」

そう返事をしたものの、なんだか落ち着かない。千鶴の声に慣れきっていたんだろう。代理の声は、どこか冷たい。

十五時過ぎ、交番に一人の女性が駆け込んできた。息を切らしている。

「すみません、財布を落としたんです」

「わかりました。落ち着いて。いつ、どこで気づきましたか」

いつもなら、こういう時は千鶴が耳元で『藤井さん、まず相手を落ち着かせて』と囁いてくれる。でも今日は違う。

『遺失物届を出力してください。フォーマットは内閣ユニット第0x4A29B準拠です』

代理エージェントの声が機械的に指示を出す。正確だが、温かみがない。

女性の話を聞きながら、俺は書類を書いた。MDプレーヤーからは千鶴の好きだった曲が流れ続けている。

十六時。交番の端末に通知が来た。内閣ユニット第0x7C3E1からの政策レビュー依頼だ。地域安全に関する何かの変更案らしい。俺は画面を見ながら、承認ボタンを押した。

『承認しました。署名は党ドクトリンアルゴリズムに準拠しています』

代理エージェントが淡々と報告する。正しい。でも、何かが違う。

夕方、交番の前を通りかかった中学生が、携帯電話の着メロを鳴らしていた。平成の頃の流行歌だ。俺も昔、同じ着メロを使っていた。

その音を聞いた瞬間、ふと思った。千鶴のエージェントも、結局は代理なんじゃないか。本物の千鶴は、もういない。声も、言葉も、全部システムが再現しているだけだ。

でも、それでも。千鶴の声で話しかけてくれる方が、俺には必要なんだ。

十八時。ポケベルが再び震えた。

『倫理検査が完了しました。藤井千鶴、再接続します』

声が戻った。千鶴の声だ。

『藤井さん、お疲れ様でした。今日は代理エージェントで大変だったでしょう』

「ああ、やっぱりお前じゃないとダメだな」

俺はそう言って、MDプレーヤーを止めた。千鶴の声があれば、音楽はいらない。

交番の窓から見える駅前広場では、まだメタバース投票が続いていた。若者たちは空中に浮かぶ何かに向かって手を伸ばしている。

俺には見えない。でも、それでいい。俺には千鶴の声がある。それだけで、この仕事を続けられる。

夜勤の同僚が来るまで、俺は交番で静かに座っていた。ポケベルを握りしめて。