折込とフロッピーの昼休み
──平成0x29A年10月06日 12:40
平成0x29A年10月06日 12:40。
研究棟の休憩室は、電子レンジの「チン」と自販機のコーヒー抽出音だけが平成のまま残っている。私は白衣の袖で机を拭き、今日の折込チラシを広げた。スーパーの特売、学習塾の秋期講習、なぜかMDプレーヤーの「今だけ復刻」。
「……いまMD、誰が買うんだ」
机の端で、私の記憶補助アプリが小さく震える。胸ポケットの端末に表示されるのは、母の声のテキスト化――のはずだった。
『倫理審査停止:近親人格エージェント 佐伯美津子(享年59)』
その一行だけが、淡々と点滅している。
いつもなら母は、昼の弁当の塩分に文句を言い、実験記録の時刻の書き方まで直してくる。なのに今日は、空白のまま。
「代理は?」と私は端末に聞く。
『代理エージェント割当:簡易ガイドv3(公用)』
公用ガイドは母の口調を真似もしない。丁寧で、薄い。薄すぎて、逆に腹が立つ。
午後の実験は、党ドクトリン署名を要する「差分断片」の提出準備だった。私の部署は、内閣ユニットに投げる政策変更リクエストの前段――安全性の根拠を整形する下請けみたいなものだ。アルゴリズムは末期で、現場ではみんな“読めてしまう”のに、手続きは儀式のように残っている。
母なら、ここでこう言う。
「根拠の表は二重にしなさい。あと、最後に紙で残しとき」
残らない。今日は誰も、私の背中を押さない。
私はため息をついてロッカーを開け、埃をかぶったケースを引っ張り出した。ラベルに油性ペンで「H0x29A-差分/古式搬送」と書いてある。
中身はフロッピーディスク。
研究棟の片隅には、なぜか現役のドライブがある。ブロックチェーン連鎖が詰まっていく時代に、磁気の薄い円盤を触ると、現実感が戻るから不思議だ。
端末に入れた記憶補助アプリが、勝手に「懐かしさ」をタグ付けしてくる。
『提案:関連記憶 “母:帳面の匂い” を再生しますか』
再生、できるならしてほしい。倫理審査停止のくせに。
私は再生ボタンを押した。
……何も出ない。
代わりに、公用ガイドが通知を読み上げた。
『ドローン配達:到着予定 12:43。受取コードを準備してください』
「え、私なに頼んだ?」
自分の購買履歴を見ても空欄だ。折込チラシだけが、机の上で無邪気に広がっている。
窓の外、配送ドローンが研究棟のベランダに降りてきた。ローターの音が、学生時代に聞いた原付のアイドリングみたいに間の抜けたリズムで、やけに生活っぽい。
受取端末をかざす。
箱は小さい。緩衝材の紙に、手書き風の印字がある。
「倫理検査中の近親人格エージェントへ ——停止時の代替記憶」
私は喉が鳴るのを感じた。こんなサービス、誰が運用している? 内閣ユニット? 党? それとも、誰も知らない“誰か”が勝手に。
箱を開けると、フロッピーがもう一枚入っていた。ラベルは、母の字に似せてある。
「昼ごはん、ちゃんと食べる」
胸が痛むより先に、笑ってしまった。こんな時に説教だけ残すな。
私はドライブに差し込み、読み込みをかけた。画面に出たのは音声でも映像でもない。折込チラシのPDFだった。
さっき机に広げたのと同じ、スーパーの特売。
ただ一箇所だけ、値段の横に小さく追記がある。
「受取コード:402-……」
私の端末が勝手にその数字列を拾い、差分断片の提出フォームに貼り付けた。
『署名要件:党ドクトリン準拠(簡易)——通過見込み:高』
公用ガイドの声が、やけに明るい。
私は、折込チラシを見下ろした。母の代替記憶が、特売情報の顔をして、手続きを通す鍵になっている。
「……お母さん、倫理検査って、そういう“停止”なの」
誰にも答えは返らない。
けれど次の瞬間、記憶補助アプリがぽつりと通知した。
『関連記憶:再生成功 “塩分は控えめに”』
音声は一秒だけ。説教だけ。
私は笑いながら、昼の弁当の蓋を開けた。チラシの上に、漬物を落とさないように気をつけて。午後の差分は、たぶん通る。
通ってしまうのが、いちばん滑稽だと思った。