霜の降りた畝に、圏外の光
──平成0x29A年11月17日 08:40
朝露が白く凍りついた畝を、長靴で踏む。土の匂いが鼻を突く。十一月の空気は冷たいが、ビニールハウスの中は別世界だ。
腰のホルダーに差したガラケーが震えた。開くと、画面の上半分にセンサーログ、下半分にメッセージ。第23農業ブロック土壌管理課からの通知だった。
『土壌pH差分リクエスト #4401187:承認待ち(72時間超過)。灌水スケジュール凍結中』
七十二時間。三日だ。三日間、水が止まっている。
「ばあちゃん」
ガラケーのスピーカーから、少しくぐもった声が返る。
「見てるよ。また署名が降りてこないね」
祖母の声だ。三年前に亡くなった祖母・笹本ハナの人格エージェント。生前と同じように、朝は少し不機嫌で、でもこちらの焦りには敏感だった。
「ほうれん草がもう限界なんだよ。あと一日水やれなかったら、全滅する」
「党ドクトリンの署名が要るんでしょう。あのアルゴリズム、最近ますます遅いって、隣の区画の田宮さんも言ってたじゃない」
ビニールハウスの外を、自律警備ドローンが低い唸りを上げて通過していく。霜の降りた畝の上を、規則正しく巡回する黒い影。盗難防止とは名目だが、実際にはユビキタスセンサー網の中継も兼ねている。あのドローンが飛んでいる限り、畑のあらゆるデータ――土壌水分量、気温、作物の成長速度――はリアルタイムでブロックに吸い上げられている。
データだけは完璧に揃っているのに、それを使う承認が降りない。
「手動灌水の申請は」
「それも差分リクエスト扱い。承認待ち。四十八時間」
祖母が溜息をついた。エージェントに呼吸器官はないはずだが、その音は妙にリアルだった。
「あんた、駐車場の横の公衆電話、覚えてる?」
「え? ああ、集荷場の前の」
「あれ、ブロック間直通回線が生きてるはずだよ。前にハナが――私が生きてたころ、台風でセンサー網が落ちたとき、あれで第22ブロックの水利課に直接かけたことがある」
集荷場まで歩いた。霜を踏む音だけが静かに響く。
緑色の公衆電話は、まだそこにあった。受話器を取ると、低い発信音。生きている。
番号はガラケーの電話帳に残っていた。祖母が生前に登録したまま、一度も消されなかった四桁の短縮番号。
三回のコールで繋がった。
「第22水利課、朝番の者です」
「第23農業ブロック、笹本です。土壌pH差分の承認が七十二時間止まっていて、灌水が凍結されています。ほうれん草が——」
「ああ、笹本さん。うちも同じです。署名キューが詰まってる。ただ——」
相手は少し声を落とした。
「緊急灌水の物理バルブ、まだ生きてますよね。センサー網の死角になる時間帯、朝の九時十二分から十四分。ドローンが充電で戻る隙間です。手動で開けてください。差分リクエストは、こちらで事後承認として通します」
「それは——」
「誰も困りません。データ上は、凍結解除がたまたま二分早かったことになるだけです」
電話を切った。受話器を戻すとき、指が少し震えていた。寒さだけではない。
「ばあちゃん」
「聞いてた」
「こういうの、昔からやってたの」
「畑ってのはね、お上の都合じゃ育たないんだよ」
ガラケーの時計は八時五十八分を指していた。あと十四分。バルブのハンドルは、ビニールハウスの裏手にある。
自律警備ドローンが旋回して、充電ステーションの方角へ飛んでいく。センサーログの数値が、一瞬だけ途切れる。
私は長靴の泥を払って、立ち上がった。ほうれん草は、今日も水を欲しがっている。