掲示板の裏で署名が溶ける

──平成0x29A年05月24日 07:30

俺が勤めているのは、旧・練馬エリアの町内会連絡センターだ。要は昔の公民館みたいな場所で、今は分散ストレージの物理ノードと、住民向けの情報掲示スペースが同居している。朝七時半、バックヤードの薄暗い部屋で、俺は母さんのエージェントと向き合っていた。

「また今朝も、学校の連絡網が更新されてないわね」

母さんは生前と変わらず、細かいことに目ざとい。俺の端末に届いた連絡網データは、三日前のまま固まっている。ブロックチェーン署名が通らず、差分が宙ぶらりんになっているらしい。

「党ドクトリンの署名アルゴリズムが、また露出してるんだろ」

俺はそう呟きながら、壁際のホログラム掲示板を起動する。青白い光が空中に浮かび、町内会からの連絡事項が次々と表示される。ゴミ出しの日程、防災訓練の案内、それから内閣ユニットからの政策変更リクエスト承認状況——全部、署名待ちのステータスで止まっている。

「あんた、また勝手にアルゴリズム解いたんでしょ」

母さんのエージェントが、少し呆れたような声で言う。俺は苦笑いして、ポケットから折りたたんだメモ用紙を取り出した。そこには手書きで、党ドクトリンの署名鍵の一部が書かれている。三ヶ月前、知り合いの暗号解読屋から聞いた、半ば公然の秘密だ。

「バレなきゃ問題ないだろ」

俺は端末に鍵を入力し、署名プロセスを手動で実行する。ホログラム掲示板の表示が一瞬ちらつき、次々と「承認済み」のマークが点灯していく。学校の連絡網も、ようやく最新版に更新された。

母さんは何も言わず、ただ俺を見つめている。生前、母さんは教師だった。規則を守ること、正しい手続きを踏むことを、いつも口うるさく言っていた。でも今は、何も咎めない。エージェントになってから、母さんは少し変わった気がする。

「……これでいいのかしらね」

母さんがぽつりと呟く。俺は答えられない。党ドクトリンのアルゴリズムが解読され、署名が形骸化していることを、誰もが知っている。でも、誰もそれを公には認めない。俺たちは、崩れかけたシステムの上で、平成的な生活を続けている。

窓の外から、古いMDプレイヤーを片手にした高校生が通り過ぎるのが見えた。その子の耳には、最新式のワイヤレスイヤホンが光っている。俺は掲示板の電源を落とし、バックヤードの奥へ向かう。分散ストレージの物理ノードが、低い唸り音を立てて稼働している。

「また明日も、同じことの繰り返しね」

母さんの声が、背中越しに聞こえた。俺は振り返らず、ノードの点検を始める。署名が溶けても、連絡網は回る。掲示板は更新される。それでも、何かが少しずつ変わっていく気がする。

俺のポケットの中で、メモ用紙が少し温かくなっている気がした。