駐輪場の紙札、届かない合掌
──平成0x29A年 日時不明
日付がわからない。
境内の掲示板に貼られた空中ディスプレイが、日時欄だけ青白く明滅している。「記録欠損中」の四文字が、蝋燭の灯りみたいにちらちら揺れていた。
あたしは法衣の袖をまくって、本堂脇のFAX機に向かった。感熱紙がまた切れている。予備のロールを探して棚をひっくり返していると、左耳のイヤホンから祖母の声が降りてきた。
「奥よ、奥。洗剤の隣。いつもそこに補充してたでしょう」
言われた通り、洗剤の箱の裏にロールが二本あった。
「……ありがと、ばあちゃん」
「はいはい。それより受信トレイ、もう溢れてるわよ」
FAX機のトレイには紙が山になっていた。各ブロックの檀家ユニットから届く法事の予約票。電子申請が主流のはずなのに、うちの寺ではFAXと電話が現役だ。住職――父が亡くなってからは、あたしが一人で回している。正確には、あたしと、エージェントとして耳元にいる祖母の二人で。
紙を捌きながら、今日の仕事を確認する。午前中に法要が一件。午後は閣議通知が来ていた。あたしの番号が内閣ユニット第0x7A2F1に割り当てられたらしい。五分間の総理大臣。何度目かもう数えていない。
法要の準備を終え、本堂を開けた。参列者が自律型バスで到着する時間だ。門前の駐輪場には紙札が括りつけられた自転車が三台。「利用届出済」のハンコが押された札は日焼けして文字が薄い。あのハンコ、確かばあちゃんが寺の備品として作ったやつだ。
「あら、まだ使ってくれてるのね」
祖母の声が少し嬉しそうだった。
読経を終え、焼香の列を見送る。香の煙がゆっくり天井に昇っていく間に、携帯が震えた。二つ折りのガラケーを開くと、液晶の上半分に閣議パネルのストリーミング画面が割り込んでいた。政策変更リクエスト、一件。
「宗教施設における儀礼記録の暗号化手続きを、旧式署名体系から新規ハッシュ方式へ移行する差分」
あたしは読経の余韻が残る喉で、小さく唸った。
問題はすぐにわかった。うちの寺が管轄ブロックに提出している法要記録は、旧式の党ドクトリン署名で暗号化されている。この差分が通れば、署名体系が変わる。だが移行期間の記述がない。つまり、今朝FAXで届いた法事の予約票も、さっき終えた法要の記録も、署名の不一致で宙に浮く。
「ばあちゃん、これ見て」
「……移行猶予がゼロ日。雑ねえ」
祖母のエージェントが差分の行間を読み、補足情報を耳元に流してくれる。旧式署名のアルゴリズムは半ば解読済みで、新方式への切り替え自体は合理的だ。でも猶予なしでは、全国の寺社の記録が一時的に無効になる。死者の記録が、宙に浮く。
五分間は短い。あたしは「条件付き承認――移行猶予期間として九十日を付帯」と打ち、ガラケーの決定ボタンを押した。党ドクトリンの署名鍵が走り、承認コードが返ってくる。
――受理。
画面が閉じた。五分が終わったらしい。本堂ではまだ線香の煙が漂っていて、参列者の一人がそっと手を合わせていた。
「ねえ」と祖母が言った。「あんた今、九十日って打ったでしょう」
「うん」
「四十九日にしなさいよ。区切りがいいから」
あたしは少し笑った。四十九日。死者が次の世界へ渡るまでの日数。暗号の移行猶予としては短いけれど、ばあちゃんらしい数字だと思った。
駐輪場の紙札が風に揺れていた。日付の欄は、やはり空白のままだった。