ラボの隅で、母は笑わない

──平成0x29A年01月22日 09:10

俺がナノ医療パッチの培養槽を覗き込んでいると、壁際のスマート冷蔵庫が「在庫が基準値を下回りました」と警告を出した。旧川越エリアの再生医療ラボ、第三培養室。朝の九時過ぎ。

「ああ、わかってる」

俺は培養液の温度を確認しながら、冷蔵庫の音声を無視した。発注は昨日出してある。党ドクトリン署名が降りるまで、あと三日はかかる。それまでは手持ちの在庫でやりくりするしかない。

「佐藤さん、今日の倫理検査、何時でしたっけ」

隣のブースから、後輩の声が飛んできた。

「十時半。もうすぐだ」

俺のエージェント――母さんの人格が移植されたそれは、今日の午前中いっぱい倫理検査で使えない。代わりに割り当てられた代理エージェントは、母さんの声とも口調とも違う、無機質な合成音声だ。

「佐藤、培養槽Bの酸素濃度が0.3%低下しています」

代理エージェントが淡々と告げる。母さんなら「蓮ちゃん、ちょっとB見てあげて」と言うはずだった。

「了解」

俺は培養槽の制御パネルを操作し、酸素供給を微調整した。ナノ医療パッチは繊細だ。温度、酸素濃度、pH、どれか一つでもズレれば不良品になる。それを防ぐために、俺たちは毎日、培養槽の前に張り付いている。

ふと、壁のホワイトボードに目が留まった。誰かが貼り付けたプリクラのシールが、端の方で剥がれかけている。五年前のラボの新年会。俺と母さん、それに当時の同僚たちが、酔った勢気でプリクラ機に押し込まれた時の写真だ。母さんはまだ生きていて、エージェントなんかじゃなかった。

「佐藤、検体No.47の培養完了まで、あと12分です」

代理エージェントの声が、また響く。

「わかった」

俺はプリクラから目を逸らし、培養槽のモニターを確認した。パッチの表面が、うっすらと銀色に輝いている。順調だ。

そのとき、ラボの固定電話が鳴った。旧式の黒電話。平成エミュの影響で、なぜか通信インフラは固定電話とテレホンカードの併用になっている。俺は受話器を取った。

「第三培養室、佐藤です」

「佐藤君、倫理検査の結果が出た」

上司の声だった。

「母さんのエージェント、戻ってきますか」

「ああ。ただ、一部修正が入った。詳細は午後に説明する」

電話が切れた。俺は受話器を置き、培養槽の前に戻った。修正が入った、という言葉が引っかかる。母さんの何が修正されたんだろう。声か、記憶か、それとも――。

「佐藤、検体No.47、培養完了しました」

代理エージェントが告げる。俺は培養槽からパッチを取り出し、検査用トレイに載せた。透明なゲル状のパッチが、蛍光灯の光を反射している。

そのとき、ふと思った。母さんのエージェントも、こうやって「修正」されて戻ってくるんだろうか。培養槽の中で、何かが削られて、何かが足されて。

俺は検査用トレイを持ち、次のブースへ向かった。壁際のスマート冷蔵庫が、また在庫警告を出している。プリクラのシールは、まだ剥がれかけたままだ。

午後には、母さんが戻ってくる。修正された母さんが。

俺は、それを待つしかない。