伝票の裏に焼ける星
──平成0x29A年12月07日 16:40
平成0x29A年12月07日 16:40。
高層農業プラントの足元は、いつも青臭い。鉄と水耕液と、葉物の湿った匂い。ガラス壁の向こうでレタスが棚ごと上下していて、夕方の斜光が薄緑を光らせる。
俺はプラント直結の集配口で、保冷箱を二つ受け取った。箱の横には、手書きの赤い丸——「先に八丁目」。
「また赤丸か」
耳の奥で父の声がする。近親人格エージェント、武田修一。享年五十九、心筋梗塞。生前は路線屋で、こういう現場の“裏”に詳しかった。
『赤丸は絶対。ルート最適化より現場が先だ。今さら聞くな』
胸ポケットの端末——ガラケー型の外装に、空中ディスプレイ投影の機能がくっついた平成の合体事故——を開くと、空中に薄い地図が浮いた。今日の配達は十四件。システムの推奨ルートは、プラント→駅前→川沿い→八丁目。
赤丸は逆だ。
「推奨無視で走ると、差分監査に引っかかるんだよな」
『引っかかっても、怒られるだけで済む。赤丸無視は、もっと面倒になる』
父の言う“面倒”は、だいたい人間関係だ。俺たちの現場には、暗号署名より強い非公式ルールがある。
八丁目の指定先は、古いコンビニだった。店頭のAR広告は「新発売・平成コーラ」を空中に踊らせてるのに、入口の灰皿だけは頑固に実物で、雨水が溜まっていた。
「宅配です」
レジの若い店員が、奥を指さす。
「コピー機、そっちです。……今日は“焼き”もあるって」
嫌な予感がして、俺は保冷箱の下に隠れていた封筒を取り出した。中身はCD-Rのスピンドルケースと、紙の伝票。紙の伝票の角には、赤い丸がもう一つ。
空中ディスプレイに、端末が通知を投げる。
《配送品目:葉物・冷蔵/付帯:記録媒体(未登録)/注意:党ドクトリン署名なし》
「未登録って……」
『だから赤丸なんだろ。ほら、コピー機へ』
コンビニのコピー機は、いつも通りの鈍い白。タッチパネルのUIはiモードっぽい階層メニューなのに、上に「空中ガイド表示」ってボタンがあって、押すと操作手順が空中に浮かび上がる。
店員が慣れた手つきで言った。
「CD-R、ここ。で、伝票をスキャンして、焼く。パスは……いつもの」
「いつものって、俺は初めてだけど」
「みんなそう言います」
俺は言われるがまま、伝票をスキャンした。空中ガイドに「内閣ユニット差分断片/一次封緘」と出る。コピー機が低い唸り声を上げ、CD-Rに“何か”を書き込む。
端末がまた震える。
《ランダム任命:第0x7A1C2内閣ユニット/内閣総理大臣(5分)》
「うわ、今かよ」
『落ち着け。押すなよ、余計なボタン』
空中ディスプレイの隅に、見慣れない承認画面が出た。
《差分断片:流通トレーサビリティ例外(八丁目経由)/党ドクトリン署名:欠落》
承認/非承認。どっちでも、俺の指が世界に触る。
店員は、俺の顔を見ないで言った。
「非承認にしないでくださいね。ここ、今夜、棚が空くんで」
脅しでもお願いでもない声。生活の声だ。
『……な? 現場が先だ』
俺は承認を押した。
コピー機が「ピッ」と鳴って、CD-Rが排出された。盤面に、黒マジックで小さく「平成」って書かれている。
「これ、何のデータですか」
店員は肩をすくめた。
「野菜の、野菜じゃないところ。たぶん」
外に出ると、プラントの上層が夕焼けを吸って、ビルというより巨大な温室みたいに見えた。葉物を積んだ俺の荷台が軽く揺れる。
端末に最後の通知。
《閣議決定:承認/付記:党ドクトリン署名(推定)自動補完》
推定。
五分の任期が切れて、空中ディスプレイの枠がすっと消えた。残ったのは、荷物と、焼きたてのCD-Rの軽さ。
『笑えるな』
父が、珍しく乾いた声で言う。
『昔はな、コンビニで公共料金を払うだけで「便利になった」って言ってた。いまは……国の穴埋めを焼いてる』
俺は荷台を押しながら、つい口に出した。
「それでも、レタスはちゃんと冷えてるしな」
『そうだ。だから腹が立つんだよ』
苦いのに、笑ってしまった。息が白くなる前の冬の空気の中で、コンビニのコピー機の唸りだけが、やけに現実味を残して耳の奥に貼り付いていた。