フロッピーに残った入国印、午前三時の案内灯
──平成0x29A年10月11日 03:30
カウンターの蛍光灯が一本だけ切れかけていて、ジジジ、と虫の羽みたいな音を立てている。
午前三時半。第22観光ブロック夜間案内所に、まともな来訪者が来ることはほぼない。あたしはウォークマンのイヤホンを片耳だけ外して、カウンターに頬杖をついていた。MDじゃなくてカセットのほう。巻き戻しのキュルキュルいう振動が手のひらに伝わるのが好きで、中古屋で見つけてから手放せない。流れているのはストリーミングから落としたJ-POPだけど。
「千景」
叔母さんの声が、左の耳元で囁いた。正確には叔母さんだった人——水沢典子、四年前に肝臓がんで死んだ、母の姉。あたしのエージェント。
「来訪者。ゲート3」
監視パネルを見ると、たしかに人影がある。自動ドアの前で立ち尽くしている。手に何か四角いものを握っていた。
あたしは制服のボタンを一つ直して、カウンター越しに声を張った。
「いらっしゃいませ、夜間案内所です」
入ってきたのは五十代くらいの男性で、汗だくだった。十月の深夜にしては異様だ。握っていた四角いものを差し出す。
フロッピーディスク。3.5インチ。ラベルに手書きで「入域申請」と書いてある。
「これ、受け付けてもらえますか。ゲートの端末がこれしか読まないって言うんで」
あたしは受け取って裏返した。叔母さんが即座に耳元で呟く。
「フロッピー申請は第397ヘゲモニー期に一度復活して、第399期に廃止されてる。でも今のドクトリン署名だと、廃止の根拠がグレー。端末が古い様式に戻ってるのかもしれないわね」
平成エミュの混線だ。端末のOSがiモード風のUIで動いているくせに、入力デバイスはフロッピーしか受け付けない。こういうことが最近増えた。ドクトリンの署名アルゴリズムが半分解かれているせいで、制度の継ぎ接ぎがあちこち剥がれている。
「読み込んでみますね」
カウンター下の旧式ドライブにディスクを差し込む。ガコン、と重い音。画面にデータが表示された。入域申請フォーム。だが署名欄が空白だった。
「署名が入ってません」
「署名? ゲートのAI秘書にやってもらったんですが」
AI秘書。観光ブロック外縁のゲートに設置されている簡易案内システムだ。近親エージェントを持たない短期来訪者向けの、薄っぺらい応答型。あれがフロッピー書き込みの署名手順を正しく処理できるとは思えない。
「千景、署名なしでも通せるわよ」と叔母さんが言った。「ドクトリンの検証鍵、今夜のローテーションだとハッシュ長が足りてない。空欄でもゲートは通る」
知ってる。最近は誰でも知っている。でもそれを来訪者に説明するわけにはいかない。
「少しお待ちください。補助パーツを出します」
あたしはカウンター裏の3Dプリンタを起動した。フロッピーのライトプロテクトタブが折れていたから、代替の小さなスライド部品を出力する。三十秒。温かいプラスチックの匂い。
タブをはめ直し、ドライブに再挿入。叔母さんの誘導で署名欄にダミーではない正規の値を手動で叩いた。承認ランプが緑に変わる。
「通りました。ようこそ第22観光ブロックへ」
男性は何度も頭を下げて、自動ドアの向こうへ消えた。
あたしはウォークマンのイヤホンを戻し、カセットの再生ボタンを押した。曲の途中から、さっきと同じサビが流れる。
「典子さん」
「なに」
「さっきの署名、叔母さんが補完したやつ。あれ、ドクトリンの正規値じゃないよね」
沈黙。蛍光灯のジジジだけが鳴っている。
「正規値なんて、もう誰にも分からないのよ」
叔母さんはそう言って黙った。
カウンターの向こう、ゲート3の承認ランプはまだ緑に光っている。あの男性がどこへ向かったのか、あたしには追う手段がない。フロッピーディスクだけがドライブの中でかすかに回転を続けていて、その音がウォークマンのサビにうっすら重なった。
正規値なんて、もう誰にも分からない。
それなのにランプは緑だ。あたしはそれが、少しだけ怖かった。