湿った配管、虹色の回転数

──平成0x29A年07月07日 16:00

 地下二階のポンプ室は、いつだって梅雨の終わりのような匂いがする。錆とオイル、それに微かな塩素の気配。第6インフラブロックの最深部、俺は配管の継ぎ目に耳を当てていた。
「兄貴、位置情報ビーコンの同期が切れてる。ここじゃ圏外もいいとこだ」
 頭の中で双子の弟、隼人の声が響く。死んでから三年、こいつは俺の視界と聴覚を共有するだけの幽霊だ。俺は腰のベルトから端末を外し、壁に設置された旧式のビーコン端末にかざして再接続を試みた。画面上で現在時刻が『平成0x29A年07月07日 16:00』に同期される。

「七夕か。地上じゃ短冊でも燃やしてる頃合いだな」
「こっちで燃やせるのはカーボンクレジットくらいだろ」
 隼人の軽口を無視して、俺は作業台に広げた分厚いファイルを開いた。『第402ヘゲモニー期・環境調整用カーボンクレジット台帳』。再生紙のざらついた手触りが指先に伝わる。この国のインフラは、高度なブロックチェーンと、こうした物理的な帳簿の二重拘束でがんじがらめになっている。
 目の前の大型ポンプが沈黙しているのは、この台帳上のCO2排出許容枠と、党ドクトリンが要求する電子署名のハッシュ値が食い違っているからだ。

「……やっぱり合わないな」
 俺は唸った。台帳には手書きで『残余枠:42トン』とあるが、システム上の署名アルゴリズムは『残余枠:Null』を返してくる。ドクトリンの解釈不整合だ。水質保全を優先するドクトリンと、省エネを絶対視するドクトリンが、コードの深層で喧嘩をしている。
「現場猫も逃げ出すレベルのスパゲッティコードだな。兄貴、証拠保全しとけ。後で監査が入ったら面倒だ」
 俺は首から下げた一眼レフカメラを構えた。デジタルデータは改竄可能として信用されないこの時代、真実は銀塩粒子の中にしかない。ファインダーを覗き、沈黙するポンプと台帳を枠に収める。
 カシャッ、というシャッター音に続き、ジー、とフィルムを巻き上げるゼンマイの振動が手に残る。この確かな手応えだけが、世界の輪郭を繋ぎ止めている気がした。

 次に俺は、PCのトレイに生焼けのCD-Rをセットした。今月の水質検査ログを焼き付けるのだ。ドライブがウィーンと唸りを上げ、高速回転を始める。
「おい、見ろよ」と隼人が言った。「書き込み中のエラーログ。ドクトリン署名の不整合を『物理メディアへの記録』という既成事実で上書きしようとしてる」
 モニターには無数の警告ポップアップが出ていたが、CD-Rへの焼き込みプロセスそのものが、強引に承認キーとして機能し始めていた。円盤が物理的に回ることで、滞っていた論理回路が無理やり通電していく。
 ガコン、と音を立ててポンプが動き出した。水流の振動が靴底から伝わってくる。

 書き込みを終えたCD-Rがトレイから排出された。俺はそれを手に取り、蛍光灯にかざしてみる。記録面の裏側が、油膜のように虹色に輝いていた。
「綺麗じゃん」と隼人が笑う。「地下の七夕飾りにしては上出来だ」
 俺は虹色の円盤をプラスチックケースにパチンと収めた。その乾いた音が、湿った地下室に小さな区切りをつけた。