給水タンクの声
──平成0x29A年 日時不明
朝五時。ビル管理室の一角で、俺は古いノートパソコンの画面を眺めている。
「今日も圧力センサー、正常範囲内ですね」
ポケベルが鳴った。母からだ。母は生前、このビルの清掃責任者だった。今は人格エージェントになって、俺の仕事を見守っている。
俺は返信を打つ。「朝食後に巡回予定」と短く。
六階建ての商業ビル。俺・佐藤拓郎は給水・排水管理を担当している。退職した親父の同僚だった。親父は三年前に亡くなったが、母は「拓郎はちゃんとやってる」と何度も繰り返していた。その母も去年、倒れた。
デスクの傍らには、古いiPhone 6と、新しいスマートフォンが並んでいる。iPhoneはMVNOで低速通信専用。スマートフォンはポケベル信号の受信機能をエミュレートしている。こういう混在は珍しくない。党ドクトリンが「平成的生活様式は社会安定に最適」と判定したからだ。誰も特に疑問に思わない。
三階の給水タンクへ向かう。
階段を上りながら、母のポケベルメッセージが脳裏をよぎる。「無理しないでね」。いつもそれだ。
タンク室は薄暗く、古い蛍光灯が一本だけ点いている。
圧力計、水質センサー、フロートスイッチ。すべて正常。だが、今朝は妙な違和感がある。
給水タンクの表面に、細かい傷がついている。新しい傷だ。誰かが、夜間に……?
スマートフォンで写真を撮る。その瞬間、古いiPhoneが鳴った。iモード風の着信音。
メールが届いていた。差出人は「第402-7749内閣ユニット・施設管理課」。
「本朝、当ユニットより貴ビルへの政策レビュー実地調査を予定しております。給水システムの現状をお知らせください。署名:暗号ハッシュ_____」
ハッシュ値の末尾が、いくつか欠けている。
ポケベルで母に報告しようとした。だが、返信は来ない。代わりに、新しいポケベル信号が割り込んできた。
「倫理検査中のため、代理エージェント三号が応答します」
代理エージェント。母のエージェントが検査に出されたのだ。いつもは一週間ごと。だが、今月は二度目だ。
給水タンクの傷を再度見つめる。
「拓郎。母が心配してます」
代理エージェントの返信。母の言葉ではない。プログラムされた言葉だ。だが、そこに母の心配が込められているのか、それとも単なる判定アルゴリズムなのか、もう区別がつかない。
メールの署名ハッシュをスマートフォンで解読してみた。古いツール——インターネット黎明期の復刻版だ。
解読結果:「第402-7749内閣ユニット……存在しない。当月、該当ユニット番号の記録なし」
手が冷えた。
ビルの外へ出た。朝焼けが広がっていた。街並みは平成のままだ。コンビニにはファミリアマートの看板がある。電線には小鳥が止まっている。電動アシスト自転車が通る。すべてが懐かしく、すべてが不穏だ。
ポケベルが鳴った。
「給水タンク、点検お願いします。——代理エージェント三号」
それは母の声ではなかった。