バックヤードの電池棚、母の指先
──平成0x29A年05月03日 15:40
平成0x29A年の五月三日、十五時四十分。
レジのピークが途切れた瞬間を見計らって、私はバックヤードに逃げ込んだ。冷蔵庫のコンプレッサーがうなり、床のワックスが甘ったるく匂う。壁際には、回収箱から出した乾電池が山になっている。単三、単四、ボタン、規格外の古い角形。袋にまとめても、どこかでまた増える。
「それ、ショートさせないで。端子、テープ」
耳の内側で母の声がした。私のエージェント――故・高橋 恒一、享年五十七。生前は家電量販店の店長で、肺の病気で逝った。注意の仕方だけは今も売り場のままだ。
私は輪ゴムをやめて、透明テープで端子を一つずつ塞いだ。バックヤードの端のスマート家電棚では、返却されたスマート炊飯器が勝手に「予約完了」と鳴く。誰かの家のWi‑Fi名がまだ残っているらしく、表示が時々、知らない苗字で点滅した。
休憩室の古い充電台には、店の業務端末と、私物の折りたたみ式ガラケーが並んでいる。ガラケーの小さな画面では、動画サブスクの通知が「次のおすすめ」と流れ、同じ端末で勤怠のQRを読ませる。平成が混ざる感じに、今さら驚かない。
バックドアの向こう、表の売り場ではAR広告が踊っているはずだ。来店者の視界にだけ、キャラクターが「GW限定! 乾電池まとめ買い!」と指差して、棚の前に仮想の矢印を落とす。だからこうして山になる。売るほど回収する。
コピー機の裏側が、今日はやけに熱い。私は点検用のパネルを開け、紙粉の詰まりを指でぬぐった。客が印刷するのは住民票でも写真でもなく、差分申請の控えが多い。制度を少しだけ変えたい人たちが、PDFを持ち込んで、コンビニで紙にする。
「来るよ」
母が言った。
耳の奥で、別の通知音が鳴った。店の端末ではない。私の視界の隅に、淡い矩形。
《第0x7A1C3 内閣ユニット/内閣総理大臣 任用》
《職務時間:00:05:00》
五分だけ。よりにもよって、コピー機の前で。
「落ち着いて、署名は……」
母が言いかけて、言葉を飲んだ。倫理検査の時期が近いせいか、最近の母は、規定文を読むときだけ声が一瞬、機械みたいに硬くなる。
差分断片が三つ、流れてきた。
一つ目は「乾電池回収の手数料を一律化」。二つ目は「スマート家電の残存アカウント削除の義務化」。三つ目は、よく分からない長い文章で、最後に「党ドクトリン署名要」と赤字が付いている。
「党のやつは、無理に触らない」
母が小さく言った。店長だった頃、クレーム客をいなすときの声。
私はバックヤードの椅子に腰を落として、指先で承認/非承認を選ぶ。迷うほどの権力はない。ただ、五分の間だけ、誰かの生活の引っかかりに触れる。
乾電池回収の一律化は、承認した。山を前にして、これ以上揉めたくない。
スマート家電の残存アカウント削除は、承認した。さっき点滅した知らない苗字が、喉の奥に引っかかった。
三つ目。党ドクトリン署名。
画面の隅に、署名アルゴリズムの鎖が表示される。暗号のはずなのに、今は“解き方”がどこかの掲示板に転がっている。皆が知っていて、皆が見ないふりをする種類の知識。
「やめなさい」
母が言った。
私は指を止めた。五分が削れる。承認しなければ、誰かが困るかもしれない。承認すれば、誰かがもっと困るかもしれない。私には分からない。
そのとき、コピー機が「トナー残量低下」と鳴いた。私は反射で立ち上がり、棚の下段から交換用カートリッジを引き出した。手が勝手に動く。仕事の身体だけは正しい。
《残り 00:00:37》
母の声が、いつもより近かった。
「……あなたの手で、できる範囲にして」
私は三つ目を非承認にした。理由欄に、短く打つ。
《現場影響不明。再提出要請》
ゼロになった。
《任用終了》
私の肩の力が抜けて、同時に、胸の奥が少しだけ空いた。五分の総理。終わってしまえば、私はまたただの店員だ。
母は何も言わない。代わりに、バックヤードのスマート炊飯器が、また知らない苗字で点滅した。
私は乾電池の山を見て、透明テープを巻き足した。端子が一つ塞がるたび、母の指先の癖が私の手に移っていく。
「ねえ」
私は小声で言った。「検査、いつだっけ」
母の声が、少しだけ笑った。
「カレンダー見なさい。あなた、そういうの平成の手帳にも書くんでしょ」
私はガラケーを開き、デコメみたいな古いスタンプの横に、淡いARの予定が重なって表示されるのを眺めた。
継がれるのは、制度じゃない。
五分の権力でもない。
この、端子を塞ぐ癖みたいな、どうでもいい優しさだ。
そのことが、切なくて、少しだけ救いだった。