雨音の解像度、あるいは深夜二時の領収書

──平成0x29A年08月30日 02:30

 ユビキタスセンサー網が弾き出した不快指数は、午前二時半を回っても「八十五」を指したままだ。旧多摩エリアの廃校を利用した避難訓練会場。体育館の湿った空気には、埃と古いワックス、それに数十人の寝息が混じっている。

「亮、サボるなよ。センサーの数値が偏ってるぞ。換気ファンのアルゴリズム、また党ドクトリンの優先順位から外れたか?」

 耳の奥で、兄の徹の声がした。享年二十二。水難事故で死んだ兄の人格エージェントは、生前よりもずっと理屈っぽくなっている。もっとも、法定倫理検査から戻ってきて以来、少しだけ語彙が平成初期のトレンディドラマじみてきたのは、システムの仕様なのだろう。

「わかってるよ。今、端末で差分を調整してる」

 私は、手元の古い液晶端末を操作した。画面には、かつてのiモードを彷彿とさせる荒いドットのアイコンが並んでいる。私は「デジタル円ウォレット」を開き、予備電源用の重油を補充した業者への支払いを済ませた。決済完了の電子音が静かな体育館に響く。

「おい、亮。ここの自治会長、まだ『紙』にこだわってるぞ」

 兄の指摘通り、パイプ椅子の影から現れた老人が、私に複写式の伝票を差し出した。平成エミュレート社会の歪みだ。決済は数ミリ秒でブロックチェーンに刻まれるというのに、現場では「手書き領収書」を要求される。私は苦笑しながら、ボールペンで「じゅうゆだい」と書き込んだ。カーボン紙の独特な匂いが鼻を突く。

 その時、視界が真っ赤に点滅した。網膜に直接、通知が飛び込む。

【緊急:第0x7EF2内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。職務期間:02:30 - 02:35】

「うわ、最悪のタイミングだ」

 私は老人に領収書を押し付け、体育館の隅に駆け込んだ。内閣ユニットの並行処理。数十万分の一の確率が、この深夜の避難訓練中に当たるとは。エージェントである兄が、即座に「党」のドクトリンに基づいたレビュー画面を展開する。目の前に、承認を待つ政策リクエストの断片が数千件、滝のように流れ落ちてきた。

「兄貴、優先順位は?」

「気象制御パッチの署名が最優先だ。このままじゃ熱帯夜のパラメーターが暴走する。ドクトリンのアルゴリズムは解読済みだ。署名キーは俺が生成する」

 私は兄の補助を受けながら、次々とリクエストに署名していく。五分間だけの独裁者。思考は加速し、私はこの国のインフラの一部になったような錯覚に陥る。ふと、リストの端に妙な項目を見つけた。災害訓練用ビデオの再生フォーマット更新案。現在は『VHSテープ』での再生が義務付けられているが、それを光ディスクへ変更するという提案だ。

「兄貴、これ……」

「却下しろ。ドクトリンは『平成の風景』の維持を求めている。VHSの砂嵐こそが、市民に警戒心を抱かせる心理的トリガーだとシステムが判断しているんだ」

 私は言われるままに「非承認」をタップした。体育館のステージ上では、巨大なビデオデッキがガチャンと音を立て、訓練映像を吐き出している。ブラウン管テレビの青白い光が、眠る市民たちの顔を照らしていた。

 二時三十五分。通知が消え、私はただの夜勤バイトに戻った。全身から汗が噴き出す。遺伝子ネットワークを流れるかすかな連帯感の残滓が、私の体温を少しだけ上げた気がした。

「終わったな。お疲れ、総理」

 兄が茶化すように笑った。私は息を整えながら、ステージ脇の機材ラックに置かれた古いVHSテープを手に取った。ラベルにはマジックで「平成五年・防災の集い」と書かれている。

「なあ、兄貴」

「なんだよ」

「さっき、ドクトリンの署名をしてる時、兄貴の記憶の断片が見えたんだ」

 耳の奥で、兄が黙る。エージェントとの同期が深まる瞬間、稀に起こるバグのような現象。

「兄貴が死んだあの夏。本当は、川に飛び込んだのは俺を助けるためじゃなくて、単に調子に乗って高いところから飛び降りただけだったんだろ。俺、ずっと自分のせいだと思って、二十年も罪悪感抱えてたんだよ」

 沈黙が数秒続いた。センサー網が捉えたのか、換気ファンが弱々しく回り始める。やがて、兄の苦笑いを含んだ声が聞こえた。

「……バレたか。悪いな、亮。でも、その方がお前、俺のことを忘れなかっただろ?」

 ブラウン管の中では、解像度の低い避難指示が、延々とループ再生されていた。