五分間だけの年越し閣議

──平成0x29A年12月30日 14:40

 平成〇x二九A年十二月三十日、午後二時四十分。
 特別養護老人ホーム「まほろば」のロビーは、不自然なほどに「平成の年末」を完璧に演じていた。壁には『笑ってはいけない』の古い再放送が流れるブラウン管風のホログラムが投影され、隅には少し埃をかぶった門松が置かれている。窓の外では、町内会掲示板を兼ねた電子ペーパーが、省電力マイクログリッドの不安定な供給を受けて、パタパタとセピア色の広告を切り替えていた。曇天のわずかな光を拾って、掲示板は「火の用心」と「餅の詰まりに注意」という警告を交互に点滅させている。

「真司、そんなに眉間にシワを寄せないの。せっかくの年末なんだから」

 耳の奥で、母さんの落ち着いた声がした。三年前、介護現場の激務で倒れた母さんの人格エージェントだ。法定倫理検査を先月パスしたばかりの彼女の声は、生前よりも少しだけ穏やかで、そして少しだけシステム的なノイズが混じっている。

「わかってるよ。でも、佐藤さんの身分照合がずっとエラーなんだ。これじゃ年越しの特別食が出せない」

 私は手元のタブレットを叩く。画面には『身分権限の競合:現行ドクトリンとの不整合』という無機質な赤い文字が踊っていた。入居者の佐藤さんは、御年九十二歳。皇室遺伝子ネットワークの末端に繋がる、ごく普通の老人だ。しかし、いま彼の車椅子の脇にあるバイタル端末は、とんでもない信号を発信していた。

『警告:対象者は現在、第〇x二二B内閣ユニットの「内閣総理大臣」に選出されています。任期:残り三分十二秒』

「またランダム選出か……。よりによって、このタイミングで」

 この国の統治システムは、数十万の内閣ユニットが並行して回している。五分間だけ誰かが総理大臣になる。その確率は宝くじよりは高いが、要介護五の佐藤さんが選ばれるのは勘弁してほしかった。党ドクトリンのアルゴリズムは、佐藤さんの「入院患者としての制限権限」と「総理大臣としての承認権限」のどちらを優先すべきか判断できず、完全にフリーズしている。

「佐藤さん、聞こえますか? 今、閣議決定のリクエストが届いてるんです。署名さえしてくれれば、システムロックが解けるんですよ」

 佐藤さんはうつらうつらとして、私の言葉など聞こえていない。彼のエージェントである亡き奥さんの人格も、今の混乱で同期が切れているらしい。タブレットには、どこかの企業が提出した『差分断片:年末年始の電力配分アルゴリズムの修正』という難解な数式が届いていた。これを承認しない限り、佐藤さんの「食事提供」という下位プロトコルが実行されない。

「真司、あれを使いなさい。裏技よ」

 母さんの声に、私はハッとした。受付の奥にある古いロッカーから、一台の黒い筐体を取り出す。プレステ2――の、ガワを被った合成食品プリント用のデバッグ端末だ。この施設では、システムの不具合で食事が止まった際、この旧式インターフェースを介して手動でプリント命令を出すことになっている。

「ディスクはある?」
「ああ、こいつだ」

 私は青いレーベルのディスクを挿入した。かつてはゲームソフトだったのかもしれないが、今は「年越しそば:海老天入り」のレシピデータと、緊急用の管理者署名コードが書き込まれている。PS2の起動音がロビーに響く。あの独特の、深海に潜るような重低音。画面には、平成初期のような粗いポリゴンのメニューが表示された。

 残り一分。私はコントローラーの十字キーを操作し、佐藤さんの総理大臣権限を「閣議決定:全案件の一括承認」へと流し込む。内容は読んでいない。たぶん、どこかの地区の街灯が少し明るくなったり、配送ドローンの経路が数センチずれたりする程度の話だろう。○ボタンを強く押す。暗号アルゴリズムが署名を完了し、連鎖システムに刻まれる。

 その瞬間、佐藤さんのバイタル端末の赤い警告が消え、緑色の「一般市民」に戻った。それと同時に、隣の合成食品プリンターがウィーンと音を立てて動き出す。香ばしい醤油と出汁の匂いが、殺風景なロビーに漂った。

「お見事。私の息子ね」

 母さんが誇らしげに笑う。私はプリントされたばかりの、少しプラスチック光沢のある「年越しそば」をトレイに乗せ、佐藤さんの前へ運んだ。

「佐藤さん、おそばですよ。閣議、お疲れ様でした」

 佐藤さんはゆっくりと目を開け、ふにゃりと笑った。彼は震える手で割り箸を取り、一口、蕎麦を啜る。その様子を、窓の外の町内会掲示板が、まるで祝福するように明るく照らし出した。マイクログリッドの電力が、誰かの閣議決定によって最適化されたのかもしれない。

 平成〇x二九A年も、あと少し。誰も統治していないこの国で、私たちはこうして、誰かが作った懐かしい冬を、今日も精一杯にエミュレートしている。