錆びた配管と、零れ落ちた生コード

──平成0x29A年10月31日 09:50

平成0x29A年10月31日、09:50。
秋特有の冷たく乾いた風が、雑居ビル群の隙間を吹き抜けていく。俺は裏路地にしゃがみ込み、壁を這う無数の配管に後付けされたユビキタスセンサー網のノードを開けていた。

「おい玲央、そこのカプラー、爪が甘いぞ。ちゃんと奥まで押し込めって」

耳元の骨伝導イヤホンから、小姑のような声が響く。三年前、ビルの足場から足を滑らせて死んだ兄、翔太の声だ。今は俺の近親人格エージェントとして、作業支援デバイスの中で生きている。

「わかってるよ。この辺のノードは外装が劣化してんだ」

俺は分厚いプラスチックボディのエッジAI端末をケーブルでノードに接続し、十字キーを押し込んだ。小さな液晶画面に『センター問い合わせ中…』というレトロな明朝体の文字と、粗いドット絵の砂時計が表示される。街の隅々に張り巡らされたこのセンサー網は、ガス漏れから異常振動まであらゆるデータを吸い上げているが、末端の処理はこんな平成エミュのUIで動いている。

『通信完了』のポップアップが出たのを確認し、俺は腰の小型プリンターからペラペラの感熱紙を打ち出した。今月分の「ガス検針票」だ。

「わざわざ紙で出す意味、マジでねえよな」と兄貴が笑う。
「党ドクトリンが定めた『安心感のある生活様式』なんだとさ。ほら、ポストに入れるぞ」

誰も開けないであろう錆びついた集合ポストに検針票を押し込んだその時、手元のエッジAI端末から「ピポパ」という気の抜けた警告音が鳴った。

画面の砂時計がフリーズし、直後、黒い背景に緑色の文字列が滝のように流れ始めた。エラーログかと思ったが、違う。意味をなさないはずの文字列の羅列に、はっきりとした構造があった。

『…// Signature_Gen_Process_Start //…』

「は?」

思わず声が出た。党中央ドクトリンが閣議決定を承認する際に用いる、あの暗号署名アルゴリズムの生コードだ。内閣ユニット間で並行処理されるはずの極秘プロセスが、なぜか末端のセンサー点検用端末に平文で垂れ流されている。

「おいおい、マジかよ」兄貴の声から軽薄さが消えた。「アルゴリズムが半ば公然と解読されてるって噂は本当だったんだな。システムの底が抜けかけてるぞ」

本来なら即座に保安ユニットへ報告すべき事態だ。だが、こんな特権レベルのデータを見てしまったと知られれば、面倒な法定倫理検査に回されるのは火を見るより明らかだった。

「……見なかったことにする」

俺は端末の電源ボタンを長押しし、強制終了をかけた。プツンという音と共に緑の文字列が消え、ただの黒い画面に戻る。システムが崩壊に向かっていようが、俺の知ったことではない。

「正解だ。下手に触って巻き込まれるのは御免だからな。さ、次の現場行くぞ」

いつもの調子に戻った兄貴の声を聴きながら、俺は作業着のポケットに手を入れた。指先が、冷たくて硬い金属の円盤に触れる。昔、二人でよく入り浸っていたゲームセンターのメダルだ。

あの日、コンクリートに横たわる兄貴のポケットから零れ落ちていたものを、こっそり拾ってずっと持ち歩いている。

(なあ、兄貴)

俺はポケットの中でメダルの縁をなぞりながら、声に出さず心の中で呟いた。

(お前のバックアップデータが作られたのは、死ぬ三ヶ月前だったよな。だからお前は、このメダルを俺が持ってることも、お前が死ぬ間際にどんな顔をしていたかも、本当は知らないんだよな)

骨伝導イヤホンからは、のんきな鼻歌のノイズだけが聞こえていた。俺はエッジAI端末のケーブルを巻き取ると、次の点検ポイントへ向けて歩き出した。