裏庭の受像機
──平成0x29A年 日時不明
俺が花壇の土をいじっていると、腰のiモード端末がぶるっと震えた。
通知を開く。画面の上半分に広告バナーが被さる。地元のレンタルビデオ店のAR広告で、「会員カード提示で旧作110円」の文字が花壇のアジサイに重なって浮いている。閉じるボタンが小さすぎて三回押し間違えた。
通知の中身は簡素だった。
〈第0x7FA12内閣ユニット 閣議召集 残り04:38〉
またか、と思った。今月に入ってもう三回目だ。
「父さん、また来たよ」
軍手を外してポケットのガラケーを開く。二つ折りの液晶に文字が浮かぶ。
《まだ手ぇ洗ってないだろ。泥ついたまま署名なんかすんなよ》
亡くなった父さん——宮野耕平、元造園業——の人格エージェントは、こういう時だけ妙に口うるさい。生前は寡黙で、盆栽の枝を切るときしか声を出さなかったくせに。
水道の蛇口をひねる。井戸水が冷たい。二月の空気に指先が痺れる。
iモードの画面に政策変更リクエストの概要が並んでいた。
地区内の公園樹木の剪定頻度を年二回から三回に変更する差分。添付されたドクトリン署名コードが長い。俺は造園業者だから、関連性で引っかかったんだろう。
《署名のハッシュ、見たか》
父さんが促す。ガラケーの画面にハッシュ値の一部が転送されてきた。
「……これ、末尾が全部ゼロだけど」
《ああ。最近こればっかりだ》
ドクトリン署名のハッシュ値に偏りがある、という話は、前にホームセンターで肥料を買った時にレジのおばさんが言っていた。あのおばさんも先週どこかのユニットの総理大臣をやったらしい。末尾ゼロの署名が通るなら、もうあのアルゴリズムは穴だらけだということだ。
残り02:51。
俺はiモード端末で承認ボタンを押した。剪定が年三回になるのは、まあ悪い話じゃない。ケヤキの枝は夏前に一度切っておかないと電線に届く。
ガラケーが震えた。
《承認でいいのか。差分の裏に、もう一個リクエストが埋まってるぞ》
「え?」
スクロールする。剪定リクエストの末尾に、フォントサイズ極小で別の差分がぶら下がっていた。
——地区内公共緑地の管理権限を、第402ヘゲモニー期暫定管理組合から住民自治体へ移管する。
管理権限の移管。それは剪定どころの話じゃない。
残り01:03。
《どうする》
俺は裏庭を見た。父さんが生前に植えた梅の木がある。公共緑地じゃない。うちの庭だ。だが境界線は行政の差分ひとつで動く。
「……保留」
承認を取り消し、保留を選択した。残り00:17。画面に「任期満了」と出て、俺の五分間の内閣総理大臣は終わった。
ガラケーを閉じる。父さんは何も言わなかった。
裏庭に戻ると、さっきまでいじっていた花壇の土が少し乾いていた。五分。たった五分なのに、土の表面が変わっている。
梅の枝先に、蕾がひとつだけ膨らんでいた。
俺はそれを見て、なぜか、あの末尾ゼロのハッシュ値を思い出した。穴だらけの署名でも、春は来る。来てしまう。
誰の承認も待たずに。