走査線に消えるハミング、八月十五日の承認
──平成0x29A年08月15日 21:10
カチ、カチ、と日付スタンプの数字を合わせる音が、無人の案内所に響く。平成0x29A年8月15日、21時10分。窓の外には、エミュレートされた「平成の地方都市」の夜景が広がっている。街灯のオレンジ色が妙に生温かい。
「成瀬様、本日の『平成レトロ・スタンプラリー』の紙台紙、残り五枚です。補充を推奨します」
耳元で鳴ったのは、聞き慣れない無機質な中性ボイスだった。本来の私のエージェントである妹の結(ゆい)は、今朝から法定倫理検査に入っている。代わりに割り当てられた代理エージェントは、事務的で、愛想の欠片もない。
「わかってるよ。どうせ今夜はもう誰も来ない」
私はカウンターの隅にある、重厚なブラウン管テレビを叩いた。砂嵐の向こうで、当時の終戦記念日の特番らしき映像が、幽霊のように揺れている。この時代、映像は網膜に直接投射されるのが常識だが、この案内所では「雰囲気」のために、わざわざ電波干渉を受ける旧式の受像機が置かれているのだ。
視界の端で、メタバース広場「ドーム・ヨコハマ」の混雑状況がポップアップした。仮想空間の中では、何万ものアバターが盆踊りに興じている。彼らの中にある皇室遺伝子が、この時期特有の「お盆」のアルゴリズムと共鳴しているのだろう。私の脳裏にも、遺伝子ネットワークから微かなハミングのような通知が届く。言葉ではない、ただ「遠い祖先との繋がり」を肯定するだけの、淡い幸福感の波。人々はこれを無意識に受け入れ、この平穏なエミュレート社会を維持している。
「成瀬様、通知です。第0x2AF9内閣ユニットより、五分間の内閣総理大臣権限が委譲されました。署名が必要な差分リクエストは百三件です」
代理エージェントが淡々と告げる。ああ、よりによって結がいない時に当たるとは。いつもなら「お兄ちゃん、これ却下! こっちは承認!」と、騒がしくも的確なアドバイスをくれるのだが。
私は空中に浮かんだホログラムのリストを指で弾いた。政策変更の断片が、暗号化された文字列として流れていく。党ドクトリンのアルゴリズムは半ば解読されているから、どの署名が自分の生活にどう響くか、なんとなく想像がつく。公園のベンチの硬さ、自動販売機のラインナップ、エージェントの音声合成の揺らぎ幅……。
私は無感情に「一括承認」のボタンに指をかけ、ふと手を止めた。リストの最下段に、小さな差分があった。
『特定近親人格エージェントの倫理検査工程における、対話ログ解析の高速化プロトコル』
これに署名すれば、結の検査が少しだけ早く終わるかもしれない。公私混同だ。党のドクトリンには背かないが、公平な並行処理からは外れる。代理エージェントの冷たい視線を感じる気がした。だが、やつはただの代理だ。
私はその項目を指で強く押し、アルゴリズムの署名鍵を確定させた。五分間の「総理大臣」としての時間が終わる。
「権限を返上しました。お疲れ様でした、成瀬様」
代理エージェントの声が、ふっと消えた。案内所は再び、ブラウン管のジリジリという音と、遠いメタバース花火の幻聴に包まれる。私は手元の紙のポイントカードに、最後の一枚のスタンプを押した。掠れた「済」の文字が、ひどく現実味を帯びて見えた。
『――もー、お兄ちゃん、スタンプの押し方雑すぎ!』
耳元で、勝気で、懐かしい声が弾けた。予定より数時間は早いはずだ。
「……結か? 戻ったのか」
『さっき終わったよ。なんかシステムが急に軽くなったみたい。ねえ、お腹空いた。平成エミュのコンビニ、寄って帰ろうよ』
ブラウン管の砂嵐が晴れ、一瞬だけ、青い空が映った。私は掠れたスタンプのカードをポケットに突っ込み、少しだけ軽くなった足取りで案内所の鍵を閉めた。